Karuizawa Union Church

2008年8月 4日 (月)

モーセに学ぶリーダーのあり方~8/4聖会(第3回)

今日の午前中は、Karuizawa  Union Church での3回目の礼拝の時を持ちました。

20080804 メッセンジャーは、同じく Dave Rose 先生です。テーマはモーセに学ぶリーダーのあり方でした。聖句は出エジプト3~4章から。

モーセはエジプト王の娘の子として育てられました。同時に彼は不思議な方法で実母によって育てられました。それゆえ彼は自分がヘブル人のリーダーとしての自覚が植え付けられたと思います。しかしエジプト人を撃ち殺し逃亡生活に入ってしまいます。

モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。(出3:11)

40年の荒野での生活でリーダーとしての自覚は失い、「わたしは一体何者なのでしょう?」という惨めな状態になります。しかしこの時に神はようやくモーセを召されるのです。

わたしにも40年の荒野がありました。わたしは小さい頃から教会で生活していました。日曜学校でもリーダーとして過ごしました。しかし月曜日から金曜日までの学校生活と土日の教会生活で人格はふたつに分かたれたようでした。

大学に入り、そのような葛藤はなくなりました。自分が好きなように振る舞うことができたのです。わたしは次のような自信がありました。---- 神はわたしにクリアに語って下さる。わたしは神さまのご意思をよく知っている。神さまはわたしを宣教の器として建て上げられたのだ ----

ところが、宣教師としてフィリピンに伝道していたときのこと。わたしは16つの仕事の責任を負っていましたが、いつの間にか徐々に仕事が削られ、ついには信徒から「あなたを必要としていません」という最後通牒を出されました。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。(出3:14)

その時わたしもモーセと同じく「わたしは一体何者なのでしょう?」と訴えました。モーセはミデヤンの野で失望していました。自己嫌悪に陥っていました。しかし神はその彼に「わたしは『あってある者」だ」と現れたのです。「わたしはあなたのともにいる」と訴えられたのです。

神は成功者としての意識のない者を敢えて選ばれます。だからほかの人からの評価について心配する必要はありません。

モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。(出4:10)

モーセのリーダー就任への拒絶はそれでも続きます。次の彼の言い分は「口べた」です。わたしはロシア、ベトナム、日本などなどさまざまな国に遣わされました。わたしは言葉はあまり上手ではありません。ただイエスの愛のメッセージを伝えました。神さまがみんなのことをお深く愛しておられることだけを伝えました。それで成功しました。

そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。(出4:14)

主はモーセに「わたしはすべてを教える神だ」と宣言されます。そして「雄々しく歩め」と檄を飛ばします。主は「議論は終わりだ。さあ、行きなさい」と言われたのです。主はわたしたちを行かせる神さまなのです。

神さまは各々の地域に各々のリーダーをたとえ彼らが不完全でも遣わし、導いてくださいます。わたしたちの弱さを通して神の強さを見せてくださるのです。

権威と権力を振るうリーダーがいます。このようなリーダーは人の話を聞きません。なぜでしょうか?恐れがあるからです。それは自分よりもいい考えを持っているのではないだろうかという恐れであり、自分よりもリーダーシップを取られやしないかと恐れです。

決定ができないリーダーもいます。一方の意見を聞いて「とてもいい考えだね」と言い、それとは別の意見を聞いても「とてもいい考えだね」という人を知っています。2つの矛盾する情報を2つともよいと思ってしまうのです。

このようなリーダーでは困ります。

神さまはわたしを造られたのだから、わたしにとって一番最適な場所と時と仕事を与えて下さいます。神さまは造られたのですから、すべての責任を取って下さるのです。

わたしたちは自分が弱いことを知らなければいけません。その上で、すべてを調えられる神さまに自分を委ねていきましょう。

このような内容でした~

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2008年8月 3日 (日)

ダビデの失敗に学ぶ~8/3聖会(第2回)

20080803c 今日の午後7時から、Karuizawa Union Church での2回目の礼拝がありましたので参加しました。

メッセンジャーは、同じく Dave Rose 先生です。テーマはダビデの失敗に学ぶでした。聖句は第2サムエル11~12章から。

ダビデがバテシバと罪を犯した後、バテシバは妊娠します。罪には必ず結果を伴うことの象徴です。

動揺した王はウリヤを戦場から呼んでどうにかバテシバと一緒に寝させようと試みます。が、忠実なウリヤの前にことごとく失敗します。

ついにはウリヤをわざと前線に送り軍を撤退させて犠牲にします。

この世には悪に対して大きく2つの考えがあります。ひとつは恥の文化、もうひとつは罪の文化です。恥の文化では公にならなければ悪ではない、と考え、罪の文化は公にならなくても悪は悪だと考えます。

ダビデはこの時、恥の文化の中にありました。

あなたがその人です。(2サム12:7)

ナタンの叱責でダビデはようやく気付きます。

申命記5章にはモーセの十戒が記されていますが、ダビデはこの十戒すべてに違反したとも言えます。

聖書の他の箇所では「ダビデは主の心にかなった」者として記されています。神さまは違うダビデについて語られているのでしょうか。もちろんそうではありません。ナタンに責められたときにダビデは言い訳をしなかった。素直に罪を告白し、神さまにもう一度浄めてもらったのです。

神さまはわたしの罪にもかかわらず、わたしを使われるのです。ダビデは死に値する罪を犯しました。しかし神さまは引き続き王として立たせ、メシアの先祖として用いられたのです。

このことから罪を告白することは大事なことがわかります。罪を告白することにより、罪の世界に留まらなくなります。

宣教師は世界各地に行きます。街角には美しい娼婦がわたしたちを誘います。ホテルに着けば、容易にインターネットからポルノにアクセスできます。それゆえ、大胆に祈ってもらうことが必要です。「わたしのために祈って下さい」「罪に陥らないように祈って下さい」と訴えるのです。

宣教団体に問題なのは宣教に忙し過ぎて祈りの時間を持てないことです。あまりに仕事をし過ぎることは危険です。

キーポイントは自由時間があるとわたしは思います。わたしの場合、1年に10日間は釣りに集中する時を設けます。宣教活動に疲れたときは、その1年1回の神さまからのご褒美を目指して頑張るのです。精神的に新しくリフレッシュさせるために何か夢中になれることを探してください。

夫婦関係にも危機があります。頭に浮かぶ考えを止めることはできませんが、行動は止めることができます。危機的な状況に入ったときは、まずは忍耐、次に忍耐、最後に忍耐です。互いに認識しあう時を持つことが大事です。

他の異性と長時間交渉を持たないことも必要です。わたしたちはみな弱いのです。サポートを必要としている存在なのです。そのことをまず認識することです。

イエスは全ての罪を赦すために来られたのです。神は再び立ち上がらせて下さるでしょう。

あなたがもし今日、罪を犯して隠していることがあるのなら誰でも信頼できる人に告白して罪の清めをもらいましょう。

このような内容でした~

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主の御心を受けいれる~8/3聖会(第1回)

今日は日曜礼拝。Karuizawa Union Church では今日から1週間、Summer Conference で、今日はその初日です。

20080803 メッセンジャーは、the German Alliance Mission Asian Director として活躍されている Dave Rose 先生でした。わたしたちは10回の講義のうち、3回を聞くことになります。

宣教師のためのメッセージのため、リーダーとしての心得、励ましなどがメインとなりますが、信徒のわたしたちにも生活に適応できる非常に興味深い内容です。

第1回目のテーマは主の御心を受けいれる。聖句は第2コリント12章から。

だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(2コリント12:10)

パウロは熱心なパリサイ派としてクリスチャンを迫害していましたが、ある時光が彼を覆い3日間、何も見えない状態となりました。その時イエスに出会い、イエスを伝道する者へと変えられました。パウロは、聖書知識、教育もあり、伝道も熱心ですばらしいリーダーであるが、彼には肉体的なとげが与えられていました。はっきりとは記されてはいませんが、目の病気だろうとの説もあります。

わたしたちは信仰生活をして、いろいろな願い事をします。すぐに聞いてくださるときもあれば、時間を経て聞いてくださるときもあります。時には No! のときもあり、願いとは全く反対の事態となるときもあります。神さまは必ずしもすべての願い事を聞いてくださるわけではありません。

このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(2コリント12:9、10)

願いを聞いてくださって感謝することも証しとなりますが、ここで重要なことは聞いてくださらなかった時にパウロがどういう反応をしたかということです。

スリランカで起きた津波の災害で家、家族、友人を失いやつれた顔をした現地の方々を目の当たりにしました。すべてを失った人に何かできたでしょうか。わたしの答えは I have nothing to do for the people. 自分の無力さを目の当たりにしました。他にも宣教の地でたびたび、自分の無力さを感じたものでした。

もし、あなたが強いリーダーであると思っているのであれば、実際は弱いリーダーです。それは、強いと口で告白することは簡単ですが、自分は”無力、弱い”と告白することはプライドもあってか、なかなか言えるものではありません。

もし、自他共に認める指導力があり、強いと自信があるのであれば、他の人々から”その人”が賞賛されて、いったい誰がその人の中心にいるのか考えられなくなるのではないでしょうか。自分自身の誇りは長続きしないのです。

新約聖書でイエスは自らを低くし、わたしたちに弱さを見せられました。人々は彼が神であるのであれば、十字架にかけられてもなんらかの方法で天使が助けてくれ、奇跡が起こるものだと期待をしていました。そのとき、イエスは何と言いましたか?「主よ、彼らをお許しください」。そして、息をひきとられました。その時は敗北のように見えましたが、3日後に奇跡が起こりました。

I can do all through Christ! (主にあって私は何でもすることができる!)わたしたちは完全に弱くなったとき、自分の無力さをさらけだしたとき、主は道を開いてくださいます。完全に主の前に降伏したのならば、たとえ祈りが願い通りにならなくとも「主の御心であれば」と告白することができ、平安な気持ちとなるのです。そして、願いを直接聞かれなくとも、間接的に聞かれることもあります。

わたしたちは、自分の無力さを告白し、主の大いなる御業に期待していきましょう。

このような内容でした~

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