子供メッセージ

2013年3月17日 (日)

イエス様の十字架

今日はイエス様の十字架の話です。キリスト教と言えば、十字架だから、みんなはもう何度も聞いているよね。
今年に入ってからの話を思い出してください。
ラザロの復活、エルサレムにロバに乗って入られる話、宮清め、最後の晩餐、逮捕、裁判、ピラトの死刑宣告などなど3ヶ月10回にわたって話を聞いてきました。長かった?
実は、これらの話は2,3週間ほどの間にパッ、パッ、パッとあっという間に起こったことなんだ。

ところで、みんな、十字架ってどんな刑罰か知っているかな?
簡単に言えば、十字の木に人間をくくりつける刑罰だね。
じゃ、どうやってくくりつけるのかな?縄かな?
いや、違うんだ、大きな釘なんだ。
十字架にかかりたいお友達はいるかな?
いないよね、絶対嫌だよね。
じゃ、イエス様はこの十字架に喜んでかかられたのかな?

わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)

イエス様もやっぱり嫌だったんだ。
じゃ、イエス様は神の子なんだから、十字架にかけようとする敵をやっつけてもよかったよね。

わたしが父に願って、天の使たちを今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。(マタイ26:53)

イエス様は敵をやっつけることもされずになぜ十字架の刑罰を受け入れられたのかな?
実はイエス様は十字架につけられる1年前ぐらいから、弟子たちに頻繁に十字架の話をしていました。
「わたしは政治家や宗教指導者から辱められて十字架につけられ殺される」とたびたび話をされたんだ。
これに対して、ペテロはイエス様を叱るんですね。ペテロは親切心からそのように言ったのですが、イエス様は逆に激しく怒られました。

サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。(マタイ16:23)

イエス様は弟子たちすべてを好きだったけど、特にペテロのことが大好きだったんだ。大好きなペテロが止めたら決意決断が鈍ってしまう、逃げたいけど、そして逃げられるけど、絶対逃げられない。イエス様は辛いけれど絶対に必要なこととして十字架を考えておられたんだね。
ではイエス様は何をされようとしておられたのでしょうか?

神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者でないことを感謝します。(ルカ18:11)

あいつのように意地悪でなくてよかった、オレはあいつよりましだ。なんて思うことはないかな?
これは傲慢の罪って言ってね、実は神様の目から見ればこのような心は赦されることない罪なんだ。
でも、そんなことを言ったら、ぼくたちの中で赦される人は誰ひとりとしていなくなってしまうよね。
じゃあ、物を盗んだ人が罰を受けずに赦される方法を知っていますか?
それは別な人を犯人にして、その人がしてもいないことを白状して、そして裁判官がそれを信じればいいんです。
これを濡れ衣って言うんだ。

十字架って、実はぼくやわたしも含めてすべての人がイエス様に濡れ衣を着せた事件なんだ。
「イエス様、わたしは神様に罰を受けなければいけません。どうかわたしでなく、あなたがやったことにしてください。」
これに対して、イエス様は「わたしがやったことにするから、わたしの陰に隠れていなさい」と言ってくださっているんだ。

キリストは、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた。(ヘブル9:28)

キリストが死んで下さったことによって、神は愛を示された。(ロマ5:8)

イエス様はうれしくてうれしくて十字架に就かれたわけではありません。
でも、とてつもなく多くの人の罪を一度に解決するには、イエス様を罪人に仕立て上げるという方法、これしかなかったのです。

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2013年2月 3日 (日)

お宮に入ったイエス様

イエス様が地上におられた2000年前の昔、神様のお宮は一つしかありませんでした。
エルサレムのモリヤの丘です。
ところでお宮というのはどのような建物か知っていますか?
そうです。神様が宿られるところです。
誰が最初につくったか知っていますか?
ダビデ王の子、ソロモン王です。
そのソロモン王は最初にお宮を建てたときに、このようにお祈りしています。

天もあなたをいれることはできません。
わたしの建てたこの家などなおさらです。歴代志下6:18

この天でさえ、神様の住む場所にはなりません。しかし、神様はこの建物に住みましょうと言われたのです。
ユダヤの人たちは、過越の祭、七週の祭、仮庵の祭という3つの大きな祭ごとにお宮詣でのためにエルサレムに参拝をしにきました。
今日はイエス様が過越の祭に備えてエルサレムのお宮に入ったときの話です。
イエス様は父なる神様との静かな交わりのためにお宮に入りました。
すると、「め~」と聞こえました。次に、「も~」と聞こえました。最後に「ぽっぽ~」と聞こえました。
お宮の中に牛や羊や鳩がいっぱいいたのです!
それはお宮で商売をしていた人たちであふれていたからです。
この商売人たちは、お宮で捧げ物をする動物を売っていました。
お金持ちには牛や羊を売りました。
1万円で牛を仕入れて10万円で売っていたのです!
貧乏な人には鳩を売りました。
100円で鳩を仕入れて1000円で売っていたんです!
神様のお宮でひどいお金儲けをしていたのです。
イエス様はカンカンになりました!

イエスは、なわでむちを造り、はとを売る人々には「わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。弟子たちは、あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろうと書いてあることを思い出した。ヨハネ2:16~17

これが今日のお話です。
この話から神様は私たちにいったい何を語られているのでしょうか?
ヒントを出しましょう。
実は神様のお宮はイエス様が来られてから意味が変わっています。
では神様のお宮とはいったい何でしょうか?

あなたがたは神の宮であって、神が自分のうちに宿っている。1コリント3:16

もしパウロが名古屋出身だったら、おみゃあさんは神のお宮だなも。と言ったと思います。
そうです!神様のお宮とは建物ではなくなりました。ぼく自身、わたし自身、あなた自身なのです。
ではそのお宮を清めるとはどのようなことでしょう?
それはぼく自身、わたし自身、あなた自身を清めることなのです。
では、どのように?
わたしの経験を話しましょう。
ぼくが4歳か5歳の時、保育園の時の話です。
ぼくが通っていた保育園は送り迎えがありました。親が仕事をしている間、保育園に子供を預けて、仕事を終わると迎えに行く。
当時50人ほどの園児が保育園にいました。
うちのお母さんが迎えに来るのはだいたい早かったです。まだ園児がたくさん残っているときに迎えにきてくれました。
でもその日はなかなか来なかったんです。
お母さん来ないな~まだかな~そのうち、園児は10人ほどになってしまいました。
日が沈んできました。まだかな~
そこでわたしはとなりにいる先生に「うちのカアボーは遅いな~」と言ったんです。
先生は敏感に反応して、「内藤君、カアボーって誰のこと?」と聞いてきました。
わたしは得意になって(幼児にはよくあることですが)「あっ、カアボーね。お母さんのことだよ。遅いからカアボーだよ」と答えました。
すると先生は冷たく「そんなこと言っていたら、一番遅くになっちゃうよ」と突き放しました。
その後、10人だった園児が9人に、8人に、7人に、6人に、ついに、ぼく一人になってしまいました。
先生は「一番遅くなっちゃうよ」と言ってから一言も話をしてくれません。
先生と二人きりで何も会話をせずにじっと待っていました。10分ほどしたらようやくお母さんがやってきました。
お母さんは「先生、遅くなってすみません。」とにこやか。
先生も「いいんですよ」とにこやか。
ぼくはといえば、泣きべそをかいていました。
お母さんの自転車の荷台に乗って背中にしがみついて「何で遅かったの~」と泣いていました。
お母さんはただ笑っていました。

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学びました。詩篇119:71

悲しみや苦しみはこれからたくさんやってきます。でもそのすべてを主はよいことに変えてくださいます。
腹が立つと「カアボー」と時々言っていたわたしですが、それ以来、40年間、一度もカアボーと言っていません。イエス様のおきてを学んだからです。

主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。ヘブル12:6

時々怖いイエス様に出会うかもしれません。
ムチをつくって私たちを懲らしめるイエス様に出会うことがあるかもしれません。
でもその時こそが神様の愛を知るときなのです。

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2012年8月12日 (日)

スパイの報告

これまでのお話をおさらいしましょう。神様はイスラエルの人たちをいじめていたエジプトを脱出させました。脱出というとそれで終わりのように思うけど、今まで住んでいた家を放棄することでもあるんだ。では、どこに住むの?帰る家がなければ、結局いじめっ子のエジプトに戻らなければいけません。

「野菜も、麦も、果物も自然にどんどん実るとっても良いところ。そこをあなたたちにあげるよ」
これが神様がイスラエルの民に約束された地、約束の地です。
でもイスラエルの人たちは「わーい、わーい、ラッキー!」とはなりませんでした。
なぜでしょう?
それが今日のお話です。

モーセは約束の地に入る前にみんなを集めて神様の約束の地がどんな場所か見ておいでと言いました。

そこで12人が選ばれて見に行きました。
40日経って、12人の人が報告会を開きました。
「どうでしたか?」と問うと、みんな口をそろえて、「とてもよい土地でした」と答えました。これはみんな一緒。

でも12人のうち10人は「とても大きな人がいたから怖い。ぼくたちは殺されるだけだから、やめた方がいい。エジプトに戻った方がいい」と言い始めました。

これに対して、ふたりの人は「大丈夫、神様がこの土地に住みなさいと言われているんだから問題も障害もすべて解決される」と言いました。

イスラエルのみんな、どちらの意見が正しいと思ったのかな?

みんな、エジプトに帰りたいと言い始めたんだ。

神様は自分の約束を信じない人たちに対して大層悲しまれた。そして「わたしの約束を信じない人は約束の地には入れない」と言われたんだ。
結局、約束の地に入ることのできたのは、60万にいた人の中の2人だけ。ヨシュアとカレブという人だけだったんだ。

今日の話は昔の話じゃなくて、今のぼくたちにも関係するだ。
ぼくたちはこれからいろいろなことを経験することになる。
病気になる。
いろんなテストもある。
発表会で、みんなの前でお話ししなければいけないこともある。
突然、恐ろしい天災に遭遇することもある。

もう、駄目だ!という経験を何度も何度もするようになる。
その時、何をするべきか。
それは主にお祈りすることです。
「あなたにだけ頼ります!助けて下さい!あなたであれば、この状況から解決を与えて下さいます!」
そうお祈りすることです。
ばかばかしいと思うかも知れないけど、それが解決の道なんだ。

ぼくの証をしよう。
10年前の話。君たちはまだ生まれていないときの話だ。ひとりでスキーに行った時のこと。
その時何を考えていたか分からないけど、案内地図にはコースがあったから、ロープで閉鎖されていたあるコースに入ってしまったんだ。
案内地図には載っていたから、「大丈夫、行ける」と思ったんだ。
でも行けなかった。1キロぐらいどうにか滑ったけど、新雪のふかふかの雪だったからついに動かなくなったんだ。
焦ったよ。周囲1キロ誰もいない。大声で助けを求めたけど誰にも聞こえない。PHSは持っていたけどアンテナが立っていない。
スキー板は歩くと沈んでいった。
板を外そうとしたけど外せない。
時間だけが過ぎていったんだ。
ここで死ぬのかと思ったよ。
そこで叫んだ。人にじゃない。神様に。
助けて下さい!って。
しばらくしてもう一度板を新雪の上にのせたら今度は沈まなかった。
そして今度は沈まないで進んでいったんだ。
数キロ順調に進んで、ようやくコースに出られた。
よかった!生きてる。主よ、ありがとうございます!って叫んだよ。
もし、あの時、板を外していたら、逆に戻ってこれなかったかも知れない。
主はきっと板を無理に外さないようにされたんだと感じたよ。
このように主は君たちの道を閉ざすことがある。
しかし、それは命への道なんだ。ノアの時もそうだった。

地のすべての肉なるものが、二つずつノアのもとにきて、箱舟にはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。(創世記7:14~15)

神様によって戸を閉ざされたとき、ノアはもう戻ることはできない!何も起こらならなかったらどうしようと思ったかも知れないね。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。(ヘブル11:6)

信仰だけ。これだけ携えて神様のところに行こう。そうすれば、君の人生を必ず導いて下さる。

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2012年7月22日 (日)

イスラエルを過ぎ越された主

20120722s今日もモーセの話です。その頃、イスラエルはエジプトの国で奴隷として働いていました。奴隷ってわかるかな?給料なしで鞭で打たれて働かされることです。(※日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 教会教育部のイラストを引用しています。)

モーセはイスラエル人を悪いエジプトの王様から解放するために神様に選ばれたんだ。神様はエジプトの王様に対抗するために多くの災いをエジプトの地に与えました。カエル、ブヨ、アブ、家畜の疫病などなど。でもエジプトの王様に全く効果がありませんでした。

そこでエジプトの王様に対抗するための最終命令がモーセに下ったんだ。それは・・・
真夜中ごろ、天使たちによってエジプトの国のうちのういごは、みな死ぬであろう。(出エジプト11:4)
というもの。昔から長男は家を継ぐ者として大事にされてきました。この長男が殺されるとは家の呪いを意味したんだ。神様がエジプトの国にされたのは、このことでした。

でも神様は助かる唯一の方法も教えて下さった。それは・・・
小羊の血をとり、家の入口の二つの柱と、かもいにそれをぬらなければならない。(出エジプト12:7)
20120722h小羊の血を柱と鴨居に塗ること。これだけです。柱は縦の棒、鴨居は横の棒です。柱と鴨居に血を描くとちょうど真っ赤な十字架になる事に気づいたかな。
つまり家に十字架を描くことが命が助かる条件だったんだ。
そして、これは昔の話でなくて、今も変わらない。

あなたがたは神の宮であって、神の霊がやどっていることを知らないのか。(コリント書上3:16)
君たちひとりひとりは家なんだ。でもそれを神の宮、神の家にすることもできるし、滅びの家にすることもできる。神の霊が宿り、神の家にするには、心の中にイエス様を迎え入れるだけでいいんだ。反対に小羊の血を家に塗らなければ、言い換えればイエス様を心に迎え入れなければ滅びが待っているんだ。

20120722h1もう一つだけ考えて欲しい。この過越の記事には、小羊の血を塗る柱は2本と書いてあるね。柱が2本あれば、十字架も2本描かなければいけないよね。
1本はイエス様の十字架。これはわかる。でももう1本は何だろう。ヒントになる御言葉がある。
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(マタイ16:24)
イエス様の十字架のほかに自分の十字架がある。その2つを体験して初めて本当の救いが君たちのところに来るんだ。
20120722c君の十字架は何か?それを決めるのはイエス様。文句はイエス様にしか言えない。ただイエス様にすべてをゆだねて生きていこう!(※日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 教会教育部のイラストを引用しています。)

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2012年7月 1日 (日)

モーセ誕生!

20120701m1今日のお話は桃太郎です。

昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山へ柴刈りにおばあさんは川へ洗濯に行きました。
おばあさんが川で洗濯をしていると桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。
20120701m2おばあさんが桃を取り上げて見ると桃から赤ちゃんが出てきました。

実は聖書にも似たような話があります。
といっても桃太郎の話よりも聖書のほうがずっとずっと古いので、桃太郎の話を参考に聖書が書かれたのでなくて、聖書の話を参考に桃太郎の話が書かれているのかも知れません。

また、桃太郎の話は実際にあった話ではありません。空想のお話です。
しかしこれからお話しする聖書の話は実際にあった話なのです。

20120701w昔々あるところに、王様の娘がエジプトのナイル川に水浴びに来ました。
昔々と言っても、桃太郎の話と違って、いつ頃かも分かっています。今から3500年ほど前のことです。
とにかく、ナイル川に水浴びに来ると、どんぶらこ、どんぶらこと箱が流れてきました。
20120701b2王様の娘が取り上げて見ると箱の中から赤ちゃんが出てきました。

この赤ちゃんがモーセという人なんだ。

モーセというと、みんな誰だろうと思うかも知れないけど、モーセはイスラエルの人たちにとっては神様の次に偉い人なんだ。

クリスチャンにとってスーパーヒーローはイエス様だけど、イスラエルの人たちにとってはモーセがスーパーヒーローなんだ。

話を元に戻そう。

みんな、想像してみてください。赤ちゃんの入った箱が川を流れていたらどう思いますか?
あり得ない!ことではないですか?
なぜ赤ちゃんが箱に入って川下りをしていたか?
それはこのような法律ができたからです。
その法律とは・・・

イスラエルの男の子が生まれたら川になげてころしなさい!

です。

実は川に流したのはモーセのお母さん。
自分の赤ちゃんを殺すことはできず、考えた末に箱に入れて川に流すことを思いついたのです。
誰か親切な人が拾ってくれたらと思ったのです。

そして、その時、偶然にも王様の娘が水浴びに来たのです。
そして、偶然にもその娘はお父さんの王様と違って、優しい女性でした。

これらの偶然が重なって、この赤ちゃんは王様の娘の子、すなわち王様の孫として育てられるのです。

さて、僕は今「偶然」という言葉を使ったけれど、実はこれは偶然ではありません。
すべて、この世の中のことで神様の支配にないことはひとつもありません。
偶然と思われることも、実は神様がすべて管理して、支配しておられるのです。

モーセのお母さんはこの時、行き詰まっていました。
「神様、あなたが生きているのなら、どうしてわたしの赤ちゃんを殺すのですか?」

ぼくたちの人生にも実はこのモーセのお母さんのように、絶体絶命な瞬間がいくつも起きてきます。すべての計画や作戦が目茶苦茶になってつぶれてしまうときがいくつも起きてくるのです。

でもそんなときこそ、静かにイエス様にお祈りして下さい。
世の中の人たちが「偶然」として片付ける方法で次々と道が開かれるのです。
いつもイエス様に期待しましょう。

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2012年6月 3日 (日)

聖書の目的は何か

今日のテーマは聖書の目的は何かです。

1.聖書の記者

まず聖書はいったい誰が書いたのかな?答えは人です。聖書は66冊からなっていますが、書いたのも編集したのも人です。これには争いがありません。

しかしクリスチャンがそうでない人と違うのは、同時に神様が特別な目的、つまりすべての人へのラブレターとして書かれたと考えていることです。別の言い方をすれば、神様がある人たちに導きを与えて書かせられたと考えることです。

わたしたちの人生は自分ですべて決定して生きていると考えることはとても恐ろしいわなだと思います。自分が誰の子として生まれ、容貌とか健康状態を含めてどのような遺伝子をもってこの世に現れたかを考えてみれば分かるでしょう。わたしたちの決定できることなど実は生まれたときから限定されているのです。

聖書も同じように神様の激しい導きによって特定の人が経験させられたことがありのままに記載されているとクリスチャンは考えているのです。
神様の愛をすべての人に伝えるためという特別な目的の中で、選ばれた人たちの行動と思いを袋小路へ導いていかれ、書かれたのです。

2.聖書の内容

では、聖書にはいったい何が書いてあるのでしょうか。

聖書は、わたしについて証しをするものである。(ヨハネによる福音書5章39節)

イエスによるみ言葉です。聖書は人の眼で見ると多種多様でまとまりのないことが書かれています。ある人は聖書は事件が書かれていると言いました。アダムが禁断の木の実を食べ楽園から追放された。カインがアベルを殺害した。アブラハムが甥のロトを救出するために軍隊を送った。ヨセフがある日夢を見た。モーセが燃える柴の中から聞こえる声にひれ伏した等々。

このようなひとつひとつの事件の中に実はイエス様が見える。聖書のどこを開いてもそれはイエスについての記述がある、そのようにイエスは言われたのです。

3.聖書が対象とする読者

また、聖書はいったい誰に対して書かれているのでしょうか。すべての人に対してでしょうか。確かにそうですが、それだけでは聖書の価値が薄まってしまうと思います。わたしは自分自身の経験から聖書は具体的に血を内に携えて生きているわたしたちひとりひとりに対して書かれていると思います。抽象的な「あなたがた」や「全人類」でなく、「あなた」に向けて書かれているのです。

「7つのパンを4000人に分けたときには、パンくずをいくつのかごに拾いあつめたか」。「7かごです」とこたえた。そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。(マルコによる福音書8章20~21節)

ある日、イエスの弟子たちはお弁当を忘れてしまいました。イエスが「パン種」を比喩として語られたとき、お弁当を忘れたことを言われたと誤解してしまいました。

イエスは過去に起きた事件を語り始めました。7つの小さなパンを4000人に分けたとき、皆が満腹になった上にパンくずを集めたら最初のパンよりも多くなっていた。イエスが弟子たちにおっしゃりたかったことは、お弁当を忘れても問題ないことを伝えたかったのです。それでも分からない弟子たちに向かって、イエスは「まだ悟らないのか」と言われたのです。

20120603hわたしたちも聖書の中に驚くべき奇跡をたくさん読んでいます。過去の事件が書いてあると思ったら、それはあの時の弟子たちを変わりません。イエスがわたしたちに今も語っておられるのは、「まだ悟らないのか」だと思います。聖書には過去の事件が書いてあるだけではなく、その事件が今現在苦しみや悩みに会っているわたしたちにそのまま適用されるものであることを悟れと言われているように思えて仕方ないのです。

これは確かに賭けです。しかし、イエス様は「わたしに賭けてみよ」と挑戦されているように思えて仕方ありません。

4.聖書の読み方

次に聖書の読み方について話をしましょう。

20120603s聖書は研究したり、記憶するものではありません。もちろんひとつひとつの言葉の意味を原語から追求することや一字一句を記憶することが悪いといっているのではありません。神様の言葉を心にとめることは大事なことです。しかしそれが目的となってしまっては意味がないといっているのです。

この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。(エゼキエル書3章1節)

聖書には時々、「聖書を食べる」と表現しています。それは神様の言葉を自分の体に取り入れよ、自分の血とせよ、肉とせよと言われているのです。

20120603mこの朝、みんなは朝食を食べてきましたか。「いや、昨日食べたから今日は食べない」というお友だちはいるかな。いないと思います。食事は毎日毎日体に取り入れます。同じように神様の言葉も毎日毎日取り入れることが大事なのです。それによってみんなの心が成長するのです。

5.専用の眼鏡

20120603gみんなはこの前の金環日食を見ましたか。見た人は何を使ってみましたか。サングラス?黒色の下敷き?そんなお友だちはいないと思います。このようなもので観察すると目を悪くしてしまうからです。遮光グラスという専用の眼鏡で見たと思います。

同じように聖書も専用の眼鏡を掛けて読まないと意味が分からなくなってしまうばかりか、破滅してしまうことがあります。

聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことができない。(1コリント12:3)

その専用の眼鏡・・・それは聖霊です。聖霊を介さないで聖書を読むと自分勝手な解釈になってしまって、最悪の場合、神様の敵になってしまうことがあります。その最たる例がサタン、悪魔です。彼ほど聖書に熟知しているものはないのです。

では聖霊とはいったいなんでしょうか。それは神様の心です。これは人が努力して与えられるものではなく、神様の選びによって一方的に与えられるものです。神様の心が与えられる人、神様の心に満たされる人、それが神様の特別養子とされた人、クリスチャンなのです。

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2012年5月 6日 (日)

礼拝するべき場所とはどこか

井戸での出会い
今日のお話はサマリヤ人の女性が井戸でイエス様と出会った時のお話です。
井戸ってみんなわかるかな?
水を飲みたいと思ったらみんなはどうする?
20120506w多くの人は蛇口をひねると言うかもしれないね。
でも蛇口があっても元々の水はどこからきているのかな?
実は何百キロも離れた山水を大きなパイプ管で引っ張ってきてみんなの家庭に配っているんだよ。
これは現代の話。
でも昔はそうはいかなかったんだ。それは水道管が整備されていなかったから。
じゃあ、みんなどうしたか?
みんなが集まる広場に井戸を掘って、周囲に住んでいる人がそれぞれ壺を携えて、往復1時間ほど掛けて各人の家に自分の力で運んだんだね。毎日毎日欠かさずにね。
2000年前のイエス様の時代はまさにそのような時代だったんだ。

井戸端会議を恐れて
今回登場するその女性もその中のひとり。
でも他の人とはちょっと事情が違っていたんだ。
この女性が住んでいるのは砂漠地帯。昼間は気温は40度以上になってとてつもなく暑い。
だから普通の人は朝の涼しいときに水をくみに行ったんだ。
ところがこの女性は真昼の一番暑いときに水を汲みに行かなければいけなかった。毎日毎日ね。
なぜか?
20120506cそれはみんなにいじめられていたからなんだ。
井戸には行かなければ死んでしまう。しかし井戸端会議は怖い。
この女性は悩んだあげく取った方法が昼の暑いときに水を汲みに行くということだったんだ。

イエス様との出会い
この日、いつもと同じように水を汲みに行った女性はいつもとは異なり、ひとりの男性が井戸に座っているのを見たんだ。
「嫌だな。男の人があんなところに!あまり係わらずに早く水を汲んで帰ろう。」
そんなことを思っていると、その男性が声を掛けてきた!
「水を飲ませて下さい」(ヨハネ4:7)
女性はびっくり。男性が女性に声を掛けるということはその時代は余りなかったし、憎み合っている民族だったので、理解できなかったんだ。
この男性こそ実はイエス様だったんだ。
人から隠れて生きてきた女性。
その女性の隠れ家に寝込みを襲うように押し入ってきた男性。そんな印象かも知れません。
「あなたは人からも神様からも隠れて生きていると思っているが、とんでもない!神様の前にはすべて明らかなんですよ」
イエス様からそんな風に言われたように感じたかも知れません。

神様を礼拝する場所とは?
ご自身がキリストであることをあからさまに女性に語られた後、さらにイエス様はユダヤ人もサマリヤ人も誰も思いつかなかったことを語り始めます。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(ヨハネ4:21)
神様は目には見えない方なので、お祈りする場所は決まっていない。心からのまことをもって叫び求めればそれがそのままお祈りするべき場所となる、そう言われたんだ。
ぼくたちはいろいろなことをして生活している。
20120506s学校に行く道、帰る道にいる時もある。
給食当番の時もある。
花火を見ている時もある。
運動会でパン食い競争している時もある。
そしてこの時、教会にいる時もある。
イエス様が言われたのは、教会だけがお祈りする場所ではないこと。
むしろ、今いくつか挙げたいろいろな時のいつでもお祈りする場所、お祈りする時になること、そのことを伝えられたんだ。
イエス様を通せば、いつでも神様との交わりはできる。だからどんな時でも「イエス様!」と叫んで神様に助けを求めて、お祈りをしてみよう。
神様は必ず答えてくださいます。

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