祈祷会

2009年6月16日 (火)

神さまによる予定~6/16祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは神さまによる予定。聖句はロマ8章から。

ロマ書8章では、信仰による義、将来の栄化の希望、御霊のとりなし等について、学んできました。

今日は神さまによる予定について、3つの点からお話しをしたいと思います。

1つめ。神さまは予知に基づいて予定された。

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。(ロマ8:29前)

神さまは予め天国へ行く者と地獄へ行く者を知っておられるとか、何をやっても救われる、救われないは定まっていると言われているのではありません。

そうではなく、神さまはわたしたちに与えられた選ぶ能力を予めご存じである、自由意思をどのようにつかうのかをご存じであるという意味です。

人間には自由意思があります。人は神のせいで滅びるのではなく、福音を拒むから滅びるのです。伝えられた者に伝えるべき責任があるのです。

2つめ。御子の栄光の御姿になると予定されています。

御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。(ロマ8:29後)

わたしたちはこの御子の御姿に変えられていきます。それは人間に新生が加わってくるということではなく、永遠の御国を引き継ぐものとしてそれに相応しいものとしていただくことです。

3つめ。救いの計画全体が予定されました。

そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。(ロマ8:30)

召し、義認、栄化、それら全体の計画を予め定められたということです。その計画は途中で挫折することはありません。主がすべてを計画され、そこに導かれるからです。

「栄光を与えて下さった」という言葉に注目しましょう。過去形になっています。それは将来に関することだけれども、栄化が既に定まっており、そこに必ず導かれるという神さまの決意として、完了形で示されているのです。

天国の栄化を目指して、清く正しい歩み続けていきたいものです。

このような内容でした~

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2009年6月 9日 (火)

神はすべてのことを働かせて益とする~6/9祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは神はすべてのことを働かせて益とする。聖句はロマ8章28節から。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ロマ8:28)

わたしたちはこの御言葉に直面したとき、確かに勇気づけられますが、同時に本当だろうかと疑念を持ちます。

4歳の子どもを白血病で失うこともあります。父親が3人の幼い子どもを残して交通事故で亡くなることもあります。未開の奥地で宣教に出かけた宣教師がひとりにも伝道せずに川で溺れて亡くなることもあります。

病、犯罪、事故、そのようなものにわたしたちはいつ遭遇するかわかりません。そのときに果たしてこの御言葉が本当だと言い得るでしょうか。

わたしたちは今日、この確信を持つ者でありたいと思います。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ(ヘブル11:37)

信仰の人の多くは悲惨な人生で終えました。それを「益」と言えるのでしょうか。わたしは「そうだ」と言い得る者になりたいと思います。

今日は3つのことをお話しします。

1つめ。神さまはわたしたちのために計画をお持ちだということです。

主はわたしたちひとりひとりに計画をお持ちです。それは義と認められ、聖とされ、栄光を受けさせられるという計画全体です。

わたしたちに起こるすべてのことは、神をより深く愛する者に成長させてくださるということです。神を永遠に愛する者へと成長させてくださいます。

神さまの計画は、愛する者を霊的に成長させてくださることです。内なる品性を清めてくださるのです。

主がわたしたちに計画しておられるのは、呪いの計画ではありません。祝福の計画なのです。

2つめ。主はすべてのことを支配しておられることです。

人生には実にさまざまなことがあります。順調なとき、逆境の時、期待通りに進むとき、期待はずれの時、心浮かれたとき、不幸のどん底の時。

主はそのように起こるすべてのことに働いておられるのです。主は実にすべてのことの主権者です。主の前には突発的なこと、偶然なことは何一つありません。

神さまが許可する範囲の中ですべてのことは起こっているのです。

誤解をしていけないのは、主は清く正しいお方ですから、罪を認めたり、悪を肯定されることはありません。

しかし悪や罪を用いることはされます。その最たるものが十字架なのです。

わたしたちは、自分たちの意思に反して事故、犯罪、病気に巻き込まれます。それらを歴史を支配しておられる主がすべてを許しておられると信じるならば、すべてのことを信仰によって受け取っていくことができるようになります。

3つめ。神さまはわたしたちの本当の益を知っておられます。

益とは自分の希望がすべて叶うことではありません。また不幸を経験しても最後はハッピーエンドの最期ということでもありません。信仰の先輩には神さまに従って苦しみの中に地上の生活を終えた人が大勢います。

益とはわたしたちの内にキリストのかたちが造られることです。キリストの品性、御霊の実が結ばれることです。

神さまはわたしたちがこの地上にいて天国というゴールに向かわせておられるのです。神さまにはひとつの無駄もありません。

動物園の虎が病気になったときにそれを治すにはどうしたらよいか。まずすべきことは虎が抵抗できないように麻酔銃で撃つことです。虎にとっては恐怖体験でしょうが、彼にとってそれが最も最善の道なのです。

わたしたちも不幸な出来事には会いたくありません。しかしそれがわたしたちにとって最善の道であるならば、御霊の実を結ばせるのであれば、どうでしょうか。

神さまはわたしたちが思う以上にわたしたちの益が何であるかをご存じなのです。今の不幸、災難を諦めるのでなく、自分にとって最善のものだとして受け取っていく。そのような信仰を持とうではありませんか。

このような内容でした~

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2009年6月 2日 (火)

アブラハムとロトの分離~6/2祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマはアブラハムとロトの分離。聖句は創世記13章から。

アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。(創13:18)

アブラムは、ヘブロンで主の祭壇を築いたとあります。ここに至るまでに彼はさまざまな失敗を経験しなければいけませんでした。エジプトでは妻サラのことを妹と偽りパロに近づかせました。

今日は、主が最善を与えてくださると信じる者は何ができるのかについて、3つの点から学んでいきましょう。

1つめ。彼は平和を作ることができます。

アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。(創13:8)

アブラムは争いから逃げる道を選びました。各々の場所に行くことによりいざこざを回避したのです。彼は甥のロトによい地を選ばせることにより平和を保たせ、族長としての責任を果たしたのです。

祝福がもし限られたものであればそこには争いが起こるでしょう。東京の銀座で先着5000名に限り、0.5カラットのダイヤモンドを5000円で販売するという記事がありました。もしこの列に横入りをする人がいれば争いが起こることは必至です。数量が限られているからです。

しかし神さまからの祝福には限りがありません。わたしたちに必要なものを十分に与えてくださるのです。そうであるなら争う必要は全くありません。

主が最善を与えてくださると信じて平和をつくり出す者になりたいです。

2つめ。彼は豊かに与えることができます。

全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。(創13:9)

アブラムはロトとの財産分離で驚くべき方法をとります。彼の族長としての権利を使わずその権利を甥のロトに与えたのです。

彼は主が必ず与えてくださると信じていたからこそ、嫉妬する必要もなかったのです。彼は相手が遠慮すると思って譲ったのではありません。神さまが最善を与えてくださると信じていたから余裕があったのです。

彼は経験から、知恵や力によって祝福を得ようという考えを捨てるに至ったのです。相手に自由に選ばせるというのは信仰の業なのです。

3つめ。彼は神さまが見なさいということを見ることができます。

ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと(創13:10)

ロトは自分の肉の眼で見えるものを見て選びました。

ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。(創13:14)

逆にアブラムは信仰の眼によって見ました。そして主が命じられたものを見て従ったのです。

わたしたちにはロトに働いたと同じように働く罪の性質があります。眼に見えるものによって選ぶのでなく、神さまが選び取っていくものを選び、信仰によって物事を見たいものです。

このような内容でした~

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2009年5月26日 (火)

御霊のとりなし~5/26祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは御霊のとりなし。聖句はロマ8章26~27節から。

今日は御霊のとりなしについて、その理由、その方法、その目的の3つからお話ししたいと思います。

1つめ。何故御霊はとりなしてくださるのか。

それはわたしたちが弱いからです。

クリスチャンはいつも助けが必要です。肉体には限界があります。己の力で行えば負けてしまうのです。神さまは弱いときだけ助けてくださればよいというのでは、「困った時の神頼み」になってしまいます。常にわたしたちには助けが必要なことを知りましょう。

御霊のとりなしがあると確信するなら、孤独の中にいるわたしたちを助けてくださるとしるならば、わたしたちは強くなれます。

「助ける」の原語は、分解すると「一緒にともに向かい合って背負う」という意味になります。

わたしたちはひとりで信仰生活を送るのではありません。聖霊なる神さまがわたしたちと共にいてくださるのです。

御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからない(ロマ8:26前)

パウロは祈りの人でした。そのパウロが「どう祈ったらよいかわからない」とは違和感を感じるかも知れません。しかし人は自分にとって本当に必要なものがわかっていないのです。

家内安全、合格祈願、交通安全、商売繁盛、肉のわたしたちはこのような祈りしかできません。祈りも自己中心的なものになってしまうのです。

この世の人と同じ祈りになってしまうとき、祈りが浄められる必要があるのです。罪がわたしたちを取り囲んで神さまのように見ることができないようになっているのです。

2つめ。聖霊はどのようにしてとりなしてくださるのか。

御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(ロマ8:26後)

「言葉にあらわせない切なるうめき」とは「言いようもないうめき」とも訳出されていますが、直訳すると「無言のうめき」です。

言葉が一杯になって、何と表現したらよいかわからないという状態です。このことを異言と解釈する人もいますが、異言のような特別な賜物でなく、すべてのクリスチャンに対して祈りの思いを与えてくださると考えていいと思います。

御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。(ロマ8:27後)

わたしたちの信じる神さまは三位一体の神さまですから、聖なる神さまは父なる神さまと完全に一致しています。聖霊なる神さまが父なる神さまの御旨に導いてくださるのです。

泥棒が「この盗みを成功させてください」など神さまの御心に反する祈りはクリスチャンの祈りではありません。神さまの思いに合致する祈りがしたいものです。

3つめ。何のために聖霊はとりなされるのか。

それは祈りが浄められるためです。

目上の人に文書を書くときに普段の時よりも失礼があってはならないと考えます。また目上の人とお話をするときも背筋が伸びて心拍数が上がったりします。それはその人に失礼があってはならないと考えるからです。

わたしたちはそれ以上のお方を拝しているのです。わたしたちの祈りが浄められなければいけない理由はそこにあります。

御霊はわたしたちの祈りを神さまが受け取るに相応しい祈りに変えてくださるのです。

それによってわたしたちの祈りは父なる神さまに届くのです。

そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。(ロマ8:27前)

わたしたちの祈りは、神さまに眼を向けて祈るのであれば、必ず届いています。聖霊によってイエスの御名を通して祈るのです。

御霊は神の御心に従って聖徒のために祈ってくださいます。

このような内容でした~

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2009年5月19日 (火)

救いの完成~5/19祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは救いの完成。聖句はロマ8章から。

ロマ書では3章から5章までが義認について、6章から8章が聖化、救いの過程について、特に8章は聖化の完成である栄化が述べられています。

義認、聖化、栄化、クリスチャンのこの過程が論理的に描かれているのです。

今日は3つのことをポイントにお話しします。

1つめ。救いが完成するのはいつか。それはキリストが再臨されるときです。厳密に言えば携挙の時です。

被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。(8:19)

ここで使われている「待ち望んでいる」の原語は、すべて再臨とセットになっています。それが実現したときが救いの完成なのです。何年何月に実現するかどうかはわかりません。天の父のみがご存じです。

2つめ。救いが完成されるとどうなるか。

これはさらに2つあります。ひとつは被造物が解放されることです。さらに言えば自然界全体が解放されるとも言えます。

実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(8:22)

神さまが造られた世界は美しいです。しかし人間の罪の故に呪われた状態にあるのです。アダムとエバだけが裁かれたのでなく、同時に自然界全体が裁かれたのです。なぜでしょうか。

それは創世記1章から2章にヒントがあると思います。人は神さまによってこの地上を治め管理する役目を委ねられました。彼らの裁きにあたり、彼らが支配を任された地も同時に裁かれたのです。弱肉強食の地上になってしまった。それは人間の罪にあるといえます。

被造物はうめいています。しかし彼らもイエスの再臨に恩恵によりすべて新しくされるのです。

今ひとつはクリスチャンのからだがあがなわれることです。

それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。(8:23)

御霊の最初の実」とは、「御霊の初穂」とも訳出されています。それは「クリスチャンは御霊という初穂を持っている」と考えた方がよいと思います。

初穂は刈り入れをする者にその後に来たる大収穫を予感させ、期待させるものです。御霊、聖霊は、わたしたちクリスチャンに内住しておられます。それは神の国の救いの完成の時の豊かな祝福を約束しておられる約束手形のようなものです。

わたしたちは「子たる身分」を与えられました。養子縁組の契約がされた者です。しかし契約が履行されるのは未来の話です。主の再臨の時にその契約は完全に履行され、実現します。

その時栄光のイエスさまのみ姿に似る者となるのです。朽ちるからだから朽ちないからだに変えられるのです。

3つめ。救いが完成するまでにクリスチャンがなすべきことは何か。

それは忍耐をもって熱心に待つことです。

もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。(8:25)

栄化をわたしたちはこの眼で確認しているわけではありません。キリストを信じたからといって、病気が治ったり、若返ったりするわけではありません。肉体においては何の変化もないことが一般的です。確かに今でも主が働くならば何でもおできになります。それを期待することはよいことです。しかしわたしたちは歳を経れば経るほど確実に衰えていくのです。

罪と罪の影響から解放される、この栄化の約束を信仰によって待ち望むなら現在の苦しみの中でも忍耐することができるのです。

ヘブル書11章には信仰の先輩方の事跡が記載されています。

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。(ヘブ11:16)

彼らは地上にあるものでなく、眼に見えないものでした。それが信仰者の求むべきものなのです。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。(8:18)

パウロの主張の中心はここにあると思います。彼は将来の栄光を楽しみにしていました。わたしたちも忍耐をもって待ち望みたいものです。

このような内容でした~

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2009年4月28日 (火)

御霊に導かれる人~4/28祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは御霊に導かれる人。聖句はロマ8章から。

今日は御霊に導かれると、人はどのようになるかについて3つの点からお話します。

1つめ。肉の力に勝利することができます。

なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。(ロマ8:13)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はない」とは、地獄に行くということではありません。死とは聖書では分離を意味します。肉に従った信仰生活では神さまから離れてしまうことを警告したのです。

神さまから離れるとは、霊的な死であり、永遠に離れるなら、永遠の死となるのです。クリスチャンが肉に従って歩むならば、霊的な生活を送ることはできません。霊的な祝福を噛みしめることができないのです。

パウロはもはや肉の力によって歩む必要はないことを強調しているのです。世の宗教は、禁欲や修行によって肉の力を押さえ込もうと考えます。しかしそれには限界があります。

これに対して、御霊に頼るならば、イキイキとした信仰生活を送ることができるのです。信仰生活に必要なものは、御霊とわたしたちのそれに従おうとする意思です。

神さまの創造の初めの目的は、神の子にふさわしい歩みをすることです。

2つめ。神さまと親しく交わる祝福に預かることができます。

14節から16節には「」と訳されている言葉が3つ出てきますが、原語ではそれぞれ意味が異なります。

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。(8:14)

ここで使われている「子」の原語は、υιοs(ヒュイオス)です。わたしは現在39歳です。交通機関を利用する場合、大人料金を支払わなければいけません。しかしわたしの父からすれば、いつまでもわたしは子どもです。そのような意味合いでここでは「子」が使われています。成長した神の子どもとして、特権に預かり、祝福に預かっているのです。

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。(8:15)

子たる身分」と訳されているギリシャ語は、υιοθεσια(ヒュイオテシア)です。それは「息子としておく」という意味で、養子のことです。

当時ローマの養子制度は、実子と同じ扱いを受けたとのことです。神さまから離れた者として生まれたが、神の子とされたということです。父なる神と親しく交わる立場におかれたのです。

それで、わたしたちは、「アバ、父よ」と親しく神に対して呼び掛けることが可能となったのです。内なる御霊に導かれるなら、わたしたちはイエスさまのように祈ることができるのです。

神さまを恐怖の対象としておびえることはありません。神さまはわたしたちを子として迎え入れてくださり、創造された目的にかなう生き方を与えてくださるのです。畏敬と尊敬の念を持って親しく神と交わりましょう。

3つめ。弟子として報いを受けます。

御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。(8:16~17)

ここで使われている「子」の原語は、τεκνον(テクノン)です。それは「親から生まれた子」、「実子」という意味で、成人には使われていません。神さまがわたしたちを新しく生み出してくださったことを意味しています。

ここにはもう一つ「共同の相続人」という言葉も出てきます。キリストと共に苦しむ者は共同相続人です。キリストと共に苦しみを共有し、キリストの弟子として歩んだクリスチャンは共同相続人になると言っているのです。

「救われて良かった」で満足して何もしない信徒でももちろん救いは与えられます。ベイシック、基本的な部分は変わりません。しかし、頑張ったクリスチャン、キリストの弟子として忠実に歩んだ人たちには、さらに特別な報いがあるのです。

パウロはこのことをしっかり見据えて歩んでいました。そしてそのことをローマのみなさんにも知ってもらいたいという思いが伝わってきます。

己の力では自らを浄めることはできません。しかし内住の聖霊に導かれるなら、苦しくても歩むことができるのです。

忠実な信仰生活には苦しみが伴います。しかし主が報いてくださる、神の子としての歩みができるなら、素晴らしいことです。

だからわたしたちはあきらめてはいけません。妥協してもいけません。わたしたちには素晴らしい将来が待っているのです。

それこそが創造主のご意志に叶う生き方なのです。

このような内容でした~

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2009年4月21日 (火)

御霊が内に住む人~4/21祈祷会

夕食後、午後7時30分から幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは御霊が内に住む人。聖句はロマ8章から。

ロマ書8章は、義と認められた者の勝利について語られています。先週はキリストにある者は、罪に定められないことを学びました。

今日は、義と認められた者は御霊が住んでいることを学びたいと思います。御霊が住んでいる人の状態はどのようであるか、どんなことができるのか、どのようであるかについて学んでいきます。

1つめ。御霊が住んでいる人は、御霊に従うことができます。

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。(ロマ8:5~6)

救われていない人、未信者は、神さまを喜ばせることはできません。肉に従うとは、常に不道徳を犯すという意味ではありません。その人の興味や関心が自分自身であるということです。人間中心主義や自己中心主義といった考えに心が引きつけられるということです。

それは、生まれながらの人を描写しており、神さまに背を向け、神さまから離れ、神さまが喜ばれない状態にあるのです。

そしてクリスチャンであっても肉に従うのであれば、未信者のように神さまを離れた死んだ状態にあるのです。

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。(ロマ8:6)

これに反して聖霊が内住すると、心が神さまの思いに引きつけられます。心が神さまの御旨と一致するようになるのです。神さまと交わった生きた状態になるのです。救われた人が神さまの御旨によって歩むなら、神に喜ばれる生活が可能になります。

2つめ。御霊が住んでいる人は、キリストのものです。

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。(ロマ8:9)

クリスチャンは神さまの所有の中にあります。そして神さまはわたしたちを尊い者、聖霊の宮としてくださいました。

この聖句では、「もし~なら」という仮定法が使われていますが、ギリシャ語の仮定法には可能性の高いものと、可能性の低いものがあります。この箇所は可能性が高い言葉が使われていますので、「神の御霊があなたがたの内に宿っているので」という強調を表す意味合いで訳すことが可能です。

聖霊はあなたの中に住んでおられるのです。どんなクリスチャンでも神さまは聖霊の宮としてお住みになっておられるのです。目には見えませんが、それが救われている証しなのです。

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。(1コリ6:19~20)

パウロが強調しているのは、あなたがたは自分自身の体ではない、だからあなたの体を使って生活を通して神の栄光を表しなさいという勧めの言葉なのです。

自分が「キリストのものである」という自覚を持って歩むなら、キリストと似た者になるのです。

3つめ。御霊が住んでいる人は、御霊によって生かされることです。

もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。(ロマ8:10~11)

わたしたちの肉体は罪の故にいずれ滅びます。しかし魂は神さまから義の衣を着せられた故に新しい体を与えられ再び生きるのです。それは朽ちない体です。

「生かしてくださるであろう」とは、未来形が使われています。未来に生かして下さるのです。

わたしたちは世の人のように刹那的な生き方を求めるのでなく、神さまと共に歩む生きた歩みををして、未来に備えた歩みをしなければいけません。御霊が内住しているから御霊による歩みができるのです。神の栄光を表す生き方をしたいものです。

このような内容でした~

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2009年4月14日 (火)

罪に定められることはない~4/14祈祷会

夕食後、午後7時30分から幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは罪に定められることはない。聖句はロマ8章から。

ロマ書6章から8章までのテーマはひと言で言えば、聖化です。義と認められた者の歩みであり、その中でも大雑把に3つに分けられます。

6章から7章前半は、義と認められた者の解放を、7章後半は、義と認められた者の戦いを、8章は、義と認められた者の勝利を、それぞれ語っていると思います。

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。(ロマ8:1)

7章後半では、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ7:24)とまで絶望した信仰者は、すぐその後で「罪に定められることがない」(ロマ8:1)と、いわば勝利宣言をしています。

なぜキリスト者は決して罪に定められることがないと言えるのでしょうか。今日は3つの点からお話しします。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(ロマ8:2)

1つめは、罪と死の支配から自由にされたからです。法則と訳されているνομοs(ノモス)は、律法と同じギリシャ語が使用されています。元々の意味は、働き、規則正しさ、秩序、原理、支配する力です。

ここでは法律というより、「働き」という意味で、何かが支配している様子を表していると考えると分かりやすいと思います。

つまり、生まれながらの人は、罪と死の支配や秩序、パターンから抜け出すことができない、罪を犯した人は死ぬという法則から解放されないけれども、命と御霊の法則はそこから解放したということです。

人は、必ず死に至り、そこから戻ることはありませんが、キリスト者だけは死から解放されるのです。解放と自由がキリスト者に与えられているのです。

相手が自分よりも遥かに強い敵であるとき、わたしたちは敗北します。しかし、その相手方の敵よりもさらに強い味方が現れるなら、わたしたちはその味方によって勝つことができます。

同じようにわたしたちが罪と戦えば必ず敗北します。しかし、御霊に戦いを任せるならば、そこに勝利があるのです。

敗北、罪悪感の中で、わたしたちは何と多く悩み、悲しむことでしょうか。しかし罪に対する悔い改めをするならば、御霊による勝利が用意されているのです。

律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。(ロマ8:3)

2つめは、キリストにおいて、罪が処罰されたからです。

律法が肉により無力になっている」とは、神さまを離れて罪深くなった様子を語っています。

では「律法が・・なし得なかった事」とは何でしょう。それは、人を赦すことです。神の怒り、滅びから救うことができないのです。律法は人に罪の自覚を持たせることができても、人を清める力はないのです。

人の肉の故に律法を守ることができない。とここで終わるならば、わたしたちには希望がありません。

しかし、この節の後半にあるように、主は、①御子を遣わされ、②肉において罪を罰せられたのです。

罪の肉の様で」とあるのは、人と同じ肉体の性質を持って生まれられたが、罪を持たない性質でという意味が込められています。

では、「肉において罪を罰せられた」とは何でしょう。それは、わたしたちの肉体に刑が執行されなければいけない処罰について、イエスが十字架上でご自身の肉体をもって背負ってくださったことを表しています。

パウロはこの信仰の出発点を再確認しようと促しているようです。

あなたがたの出発点は何か。信仰者は十字架を忘れてはいけません。神さまの大きな犠牲をわたしたちは決して忘れていけないのです。

これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。(ロマ8:4)

3つめは、御霊に従うなら清い歩みができるからです。

律法は、神さまの教えを守り、清く生きることを要求しています。しかし、それは完全に守らなければ律法全体を犯すことになる(ヤコ2:10)という厳しいものです。律法は人に完全を要求しているのです。

しかし、驚くことにわたしたちが御霊によって歩むならば、律法全体の要求を満たすとこの箇所は語っているのです。

律法は神さまから出ています。しかし肉の体ではその要求に応じることはできません。神さまはそのこともよくご存じです。わたしたちは自分では何一つなしえないことを学び、神さまに助けを求めるプロセスを体験する必要があるのです。

自分の非力さ、無力さ、そして主にだけより頼み、神の道具に変えられていく、その時にわたしたちは清く生きることができ、律法を全うできるのです。

罪と戦い、霊的な戦いの中で、御霊に従って満たされて歩もうではありませんか。

このような内容でした~

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2009年4月 7日 (火)

人を恐れず神を恐れる~4/7祈祷会

夕食後、午後7時30分から幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは人を恐れず神を恐れる。聖句はルカ12章から。

この12章に入る前の11章ではイエスとパリサイ人との対立が厳しさを増して緊迫してきた様子が描かれています。イエスはパリサイ人の偽善を厳しく責め、パリサイ人はイエスに言いがかりを付けようと絶えず狙っていました。

そのような状況の中にあって、イエスは「人間を恐れるな、神を恐れよ」とメッセージされました。では、人を恐れず神を恐れるとどうなるのか、今日は4つお話しします。

1つめは、自分に正直になれます。

「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。(12:1後~3)

人を恐れると、本当の自分を隠し、背伸びしよく見せようとし、自分の悪いところを隠そうとします。いろいろ自分を飾ってよく見せようとします。

その典型がパリサイ人だったのです。それに対して主イエスは「偽善の原因は誰を恐れるか、その対象を間違えたことである」と言われているのです。

逆に人を恐れず神さまを恐れると自分を偽ることがありません。神さまの前ではすべてはあばかれるのですから、隠す意味も必要性もないのです。人の眼、顔、意見を気にすると自由がなくなります。それは人の意見に耳を傾けないということでなく、人のうわべの評価を気にしないということです。

神さまを信じると、自分に正直に生きることができるのです。

現在中国で伝道している知り合いの宣教師が証しをしてくれました。救われる前に自分らしい生き方を探すためにインドまで旅行に行った。しかしそこには何もなかった。イエスを信じたとき初めて心が解放され、自分を飾らないで生きることができたと。

現在彼は多くの人を救いに導いています。

2つめは、罪の解決を神に求めるようになります。

そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。(ルカ12:4~5)

多くの人が真実の神さまを信じようとはしていません。何故か?それは自分の罪が分かっていないからです。人を恐れず神さまを恐れると、神さまから罪の赦しを求めざるを得なくなります。

地上にいる間、主イエスを否む人生を過ごせば、罪人の魂はゲヘナに投げ込まれます。しかし主は同時にゲヘナから救う力もお持ちです。主はゲヘナに投げ込む権威をお持ちであると同時にゲヘナに投げ込まない権威もお持ちなのです。

自ら罪を進んで犯しているのなら、神さまを恐れているとは言えません。

3つめは、神さまの慈しみが理解できます。

五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。(ルカ12:6~7)

わたしは幾人かの人から「わたしのようなちっぽけな人間を神さまが見ておられるとは思えない。」、「神さまが見ておられるのであれば、どうしてわたしは病気ばかりするのか」、「どうして祈っているのに聞いてくださらないのか」という叫びを聞いたことがあります。

しかし、あなたの状態がどんなであろうと、主は生きておられ、あなたを見ておられるのです。わたしたちに最善のものを、最もよいものを備えてくださったのです。

わたしたちはそもそもどのような人でしょう。神さまはどんな小さな罪も見逃されないとするならば、わたしたちはそもそも滅びるばかりの者です。当然滅ぼされるにもかかわらず、物質的、経済的に健やかに生きる環境を与えてくださっているのです。

神さまの愛は十字架にすべて語り尽くされています。1羽の雀を見てください。漫然と見るのでなく、神さまの奇跡として見てください。1羽の雀さえ養われているのです。なおさらわたしたちのことを導いておられるのではないでしょうか。

最後4つめは、イエスさまを証しできます。

そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。(ルカ12:8~9)

主は主を認める者を認めてくださいます。人を恐れると、キリストを証しする事を恐れてしまいます。逆に人でなく、神を恐れると主を堂々と証しします。

ペテロを思い出してください。ペテロは弟子の中でもリーダー的存在でしたが、イエスが捕らえられた夜、人を恐れ、主を3度も否定しました。

これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。(使5:29)

しかし、その同じペテロは聖霊にふれられた後、議会に引き出されて、大胆に変わりました。

パウロも同じように獄中であっても、王の前であっても堂々と主イエスを証ししました。

わたしたちはイエスさまがわたしたちに伝えられた「恐れるな、恐れよ」に聞き従いましょう。そうすれば偽る必要はなくなります。真の悔い改めに導かれ、すべてのものが感謝に変えられます。

イエスさまの証しができるよう前進していきましょう。

このような内容でした~

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2009年3月31日 (火)

ソドムの申出を拒絶したアブラハム~3/31祈祷会

夕食後、午後7時30分から幸田バプテスト教会(額田郡幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマはソドムの申出を拒絶したアブラハム。聖句は創世記14章から。

まず背景を説明します。

この頃の広大な地域を支配して、今で言う「国家」を体をなしていたのはエジプトぐらいでした。ほかは王と言われる人たちはいましたが、都市国家というか、小規模な地域を治めていただけでした。

このような小国同士が争うと、負けた国は買った国に貢ぎ物を治める義務を負いました。創世記14章にはソドムの王のほか5人の王がエラムの王ケダラオメルに貢ぎ物を戦いに敗れ治めていた様子が記述されています。

すなわち彼らは十二年の間ケダラオメルに仕えたが、十三年目にそむいた(創14:4)

この箇所は12年間貢ぎ物を治めたが13年目に治めなくなったことが書かれてあります。

そこで彼らはソドムとゴモラの財産と食料とをことごとく奪って去り、またソドムに住んでいたアブラムの弟の子ロトとその財産を奪って去った。(創14:11~12)

しかし5人の王は再び敗れ、アブラハムの甥のロトまでもが捕縛されたという事件からアブラハムが登場してきます。

そして彼はすべての財産を取り返し、また身内の者ロトとその財産および女たちと民とを取り返した。(創14:16)

アブラハム(当時はアブラム)はロトが捕らえられたとのニュースを聞き、ロトの救出のために戦い、すべての財産を取り戻すことができました。

この後、アブラハムはサレムの王メルキゼデクから祝福を受けます。反対に逆転勝利をもたらせたアブラハムに対してソドムの王は貢ぎ物を渡そうとするのですが、アブラハムはそれを断ります。なぜ莫大な富を提示したのにアブラハムは断ったのか。今日は3つのことを考えていきたいと思います。

1つはアブラハムは謙遜であったということです。

アブラハムは甥であるロトのために命を賭けて戦いました。自己中心で堕落したロトのためにです。彼は極めて堕落した街ソドムに選んで居住していました。

またアブラハムは近隣の人とよい関係にあったと思われます。

アブラムは身内の者が捕虜になったのを聞き、訓練した家の子三百十八人を引き連れてダンまで追って行き(創14:14)

318人は決して多い人数ではありません。彼には自分の力ではなく、神さまの力で戦うという信仰があったのではないでしょうか。

その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。・・アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。(創14:18~20)

彼は祝福の源は神さまであることをしっかり認識していました。それ故に神の祭司であるメルキゼデクを自分よりも高いものと認め、10分の1を捧げたのです。

彼は自分で勝利をしたという高慢から勝利することができた。成功するとプライドが生じて高慢に陥りやすいものです。しかしアブラハムはそうはならなかった。わたしたちは成功したときほど気をつけなければいけないのです。

2つめは、アブラハムは見えない敵を識別できたことです。

アブラハムは本物を知っていました。いと高き神、天地の創造主から祝福が来ることを知っていました。

わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。(創14:23)

アブラハムは、後にソドムの王が高ぶることを見抜いていました。神さまに栄光が帰されるべきなのに、ソドムの王が頌えられることになってしまう。ソドムの悪い動機を見抜いていたのです。

わたしたちはさまざまなチャンスに出会います。それらのチャンスがすべて悪いわけではありません。しかしそれが神さまからのものであるか、吟味して受け取ることが求められているのではないでしょうか。それは神さまが崇められることになるかという基準です。敵を識別したからソドムの申出を断ることができたのです。

3つめは、アブラハムは目先の損得に左右されなかったことです。

彼は莫大な富を持つことによって問題になることを体験から知っていました。メルキゼデクとの出会い、祝福、捧げもの、これらの体験によって霊的な備えができていたと考えられます。

今、この世で捨てても未来に神さまから祝福を受けると信じることができた。

ただし若者たちがすでに食べた物は別です。そしてわたしと共に行った人々アネルとエシコルとマムレとにはその分を取らせなさい」。(創14:24)

また彼は盟約を結んだ人たちのことを気にする余裕がありました。彼らとわたしとは立場が違うと。

神さまがわたしたちを富ませるのだということを思いたいものです。成功した後、そのような判断が必要となります。人間関係の中には喜びもあれば悲しみもあります。苦しい戦いに勝利した時こそ、その後の「ソドムの王からの申出」に注意しましょう。

目に見える肉の戦いだけでなく、霊的な戦いがあるのです。本物を知って備えをしましょう。

このような内容でした~

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