聖書研究会

2009年2月26日 (木)

互いに仕え合う~2月26日/聖書研究会

今日は豊田バプテスト教会婦人会に参加しました。高野伝道師がメッセージを取り次がれました。テーマは互いに仕え合うでした。

神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。・・実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。(1コリ12:17~19)

教会の中でも賜物という言葉を耳にします。それぞれ定義付けはできませんが、才能には自分を誇らせるものがあり、賜物には神さまを誇らせるものがあります。教会のなかに自分を誇らせるものがあり、それを他の兄弟姉妹に対する軽蔑となるのであれば肉からのものと思ってよいでしょう。

才能は自分に返ってくるものであり、賜物は神さまにお返しするものです。神さまは奉仕をしているとかしていないとかで判断はされません。どんなに奉仕をし伝道をしていても自己満足であれば神さまは喜ばれません。

教会のなかで評価が入ってしまった場合それは乱れの原因となります。

キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。(エペソ5:21)

聖書には”互いに”という言葉が何度もでてきます。仕え合うとはお互いに尊敬しあうことです。キリストに対する恐れの心を持ってとは、ひと言で言えませんが人との付き合いの中で思慮深くなる必要性があるということではないでしょうか。

1,直感的な行動は控える。 → 相手を振り回してしまう可能性がある。

2,自己中心的とならない。 → 自分優先で、与えるより受けてしまっている。

3,自己主張をしない。 → サタンが神さまに反抗したのも自己主張であったことを思い出してください。頑固さも実は自己表現をする一つの罪です。持論は自分に関心がある現れです。

4,他の人を支配しない。 → 支配というと語弊がありますが、自分が思うように人を動かしたい思いがあるのは仕えることの逆です。

5,自分と違う意見を受けいれる。 → わたしたちはお互いに頭ではありません。批判されて腹を立て、言い訳をするのであれば仕えていることにはなりません。

すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
次のように書いてある、義人はいない、ひとりもいない。(ローマ3:9~10)

福音の原点はすべて同じラインに引きずり落とします。もともとポイントが高い人などはいないのです。よい行いをするから、奉仕をするから、賜物、才能があるから・・・そういうことで神さまは評価をなさいません。教会生活で嫉妬したり、誇ったり、批判したりするのは霊的成長の妨げです。お互い不完全な者であることを認識すべきです。どんな思いでイエスさまが自分の罪のために十字架にかかられたのかをいつも思い出してください。

なにが大切でしょうか?御言葉に親しみ、日々実行していくことです。神さまが受けいれられる姿勢は何か・・・いつも敏感なものとなるよう成長していきましょう。

このような内容でした~

 

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2009年2月19日 (木)

多様性の中の一致~2/19聖書研究会

今日は豊田バプテスト教会の聖書の学び会に参加しました。高野伝道師がメッセージを取り次がれました。テーマは多様性の中の一致でした。

働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。(1コリ12:6、7)

もし私達の救われた目的が個人的な救いだけでよいならば、イエスさまを信じて救われた後の歩みは必要ないのではないでしょうか。しかし、神さまは私達に成長を求めておられるのです。それは自分だけの自己満足な救いではなく、他の人の救いのために祈り、兄弟姉妹の交わりを通して信仰が培われていくのです。そしてその中で各々の賜物が他の人の益となっていくのです。

からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。(1コリ12:12)

一致というのはみんなが同じことをして、同じ考えをするというわけではありません。それぞれ家庭環境が違い様々な違いの中での一致を意味します。"1つになる"というのは"溶け合う"という意味があります。みなさん、毎日料理をするときに色々な調味料を入れますね。調味料は互いによいところを出しあってこそ美味しい料理ができます。一つの調味料が出過ぎるとおかしな味になってしまいます。教会も同じです。それぞれのいいところを引き出してこそ良い味をだし一致するのです。ひとりだけの自己満足や他人を顧みない強すぎる個性は一致を乱してしまいます。

そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。(1コリ12:22~24)

教会には様々な人がいます。私達はひとりひとりの信仰に応じていたわり合う必要があるのです。その弱さが未熟な弱さなのであれば待つ必要があります。ある人にはできて、ある人にはできない弱さなのであれば、できるひとはできない人に裁いてはいけません。助ける必要があります。分かっているのにやらない弱さなのであれば、忠告する必要があります。それぞれの弱さを互いに背負い助けることで、それぞれの信仰も成長し、他の益にもなるのです。

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。(ロマ12:1)

パンの奇跡で、一度主に捧げたパンを砕いて他の人への満たしにされたように、私達も主に身を捧げ、成長と共に砕かれて、他の人への愛・労りに用いられるのです。決して個人主義や自分自身のご利益のためだけの信仰生活を主は喜ばれません。教会が一つの体として機能していくよう1人ひとりが主との関係を深め、労りあいましょう。

このような内容でした~

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2009年2月 5日 (木)

信仰を得る喜び~2/5聖書研究会

今日は岡崎キリスト教会の聖書研究会に行ってきました。メッセージは小森牧師が取り次がれました。テーマは信仰を得る喜びでした。聖句はヘブル11章から。

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
(ヘブル11:1)

この11章では旧約聖書で信仰により歩んだ人々が記されています。アブラハムとモーセは特に多く記されていることが分かります。信仰によって勝利していった者たちの証しです。

しかし、35節の後半より展開が変わってきているのが分かるでしょうか?信仰を持って迫害にあった人たちのことが記されています。ここでわたしたちは聖書を読む上で大切なことを教えられるのです。それは、信仰によって勝利を得た者も、信仰によって迫害を得た者も同レベルとして記されているのです。

神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。(ヘブル11:40)

わたしたちもクリスチャン生活をしていくなかで、あるクリスチャンは経済的にも健康にも恵まれる。あるクリスチャンは経済的にも健康にも恵まれていない。あの人は聖書も読み、信仰があるから恵まれているのだとか、あの人は聖書も読まないし祈りもしてないし、きっと神さまは祝福していないのだ・・・不幸などは特に誰かに責任を負わせたがるのです。それが自分や他人や神さまであったり。口では言わなくとも心の中で思うこともあるかもしれません。しかし、わたしたちの側では判断できないのです。軽々しく兄弟姉妹を裁くことはできないのです。イエスさまを信じ、信仰をもつ人生となった以上、わたしたちはこの世の楽しみではなく天の楽しみを望むことができるのです。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイ5:11,12)

わたしたちは事情境遇がどうであれ、祈り、聖書を読み続けましょう。クリスチャン生活で聖書を読むのは神さまのためではありません。自分自身のためであることを覚えていてください。御言葉は霊的な糧です。赤ちゃんが栄養分を摂らずに成長するとどうなりますか?身と骨だけか死んでしまいまいます。神さまはわたしたちの成長を望んでおられるのです。地上での生活や楽しみに目を向けるのではなく、天のふるさとを仰ぎ見ようではありませんか。

このような内容でした~

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2009年1月22日 (木)

新しい契約~1/22聖書研究会

午前中、岡崎キリスト教会(岡崎市戸崎町字越舞26-3 電話0564-54-7610)木曜聖書研究会に出席しました。

テーマは新しい契約について。聖句はヘブル人への手紙8~10章より。

メッセージは小森牧師が取り次がれました。今日は旧約聖書の幕屋についての説明がされましたが文字だけではわかりにくいので、写真で説明してくださいました。

神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えてゆく。(ヘブ8:13)

このヘブル人への手紙は、キリスト教になってある程度年月を経ているが信仰が成長しない者、迫害にあって戦いに絶えられなくなり、信仰を捨てる者やユダヤ教に逆戻りする者への励ましがテーマとなってます。

幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。(ヘブ9:7)

この書簡はユダヤ人にあてられた手紙のため、旧約聖書の知識がなければなかなか理解ができません。ユダヤ人はモーセの時代から毎年、大祭司が自分そして民の罪の清めのため、いけにえをささげる儀式をしていました。

この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。(ヘブ9:9)

しかし、キリストの救いはユダヤ教の祭儀よりもはるかに優れたものであることを証明しました。そして幕屋は今の時代に対する比喩であると書かれています。

キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。(ヘブ9:24)

わたしたちは、新約の時代に生きています。イエスさまがご自身をささげられたことにより罪が赦され、毎年毎年いけにえを捧げる必要はなくなったのです。儀式や律法という影に目をとめるのではなく、実体(イエスさま)に目をとめ、イエスさまの生き方がどのようであったか、目には見えない信仰によってわたしたちは歩んでいくものとなりたいものです。

このような内容でした~

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