日曜礼拝:小池

2009年3月15日 (日)

人生の回廊~3/15日曜礼拝

今日は日曜礼拝の日。愛餐会の担当でしたので、朝早めに行きました。

メッセージは、東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。テーマは人生の回廊。聖句は第2コリント4章から。

エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。(ヨハ5:2)

ベテスダの池には回廊があり、ここに病人がたむろしていたと書いてあります。それはこの池は癒しの池と呼ばれていたからです。ある有名なサッカー選手は「人生は旅、終わりなき回廊」と表現したとのことですが、この回廊に多くの人が癒しを待っていたのです。

たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。(2コリ4:16)

わたしたちの年齢には3種類あります。ひとつは生活年齢。わたしは1938年1月生まれ。今71歳です。これは動かしようのない年齢で変わりません。

ひとつは生活年齢。これは健康状態に左右される年齢です。3番目は心理的な年齢です。80歳、90歳になっても若々しい気持ちをもっている人は大勢います。

わたしたちクリスチャンも「外なる人」は確実に年を追うごとに滅びていきます。それはクリスチャンでない人と同じです。わたしたちが幸いなのは「内なる人」が日々新たに生まれ変わっていくことです。心理的、精神的に新しくされ成長するのです。

冬の間、桜の木は死んだようです。しかしこの時期になると幹がピンク色に染まってきます。そのような木は早晩つぼみを付けます。その内に生命があるなら、春に花を咲かせるのです。

なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。(2コリ4:17)

パウロの経験した患難は決して軽いものではありませんでした。しかし神の目から見た時、将来与えられる栄光が余りにも重く、永遠の朽ちないものであるが故に軽いと感じられるというのです。

わたしは70年生きてきましたが、これほどの不況は初めてです。崩れ落ちるような時代は初めてです。大患難時代のようです。しかし神はそのような困難、患難を通して働いて下さるのです。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。(2コリ4:18)

わたしたちはこの世の国と神の国がだぶって世界に生きています。この世の国を見ると絶望的です。しかしその中にあっても神さまが働いておられ、最終的には神の国が勝利するのをわたしたちは知っています。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。(マタ6:31~34)

明日のことの心配が無用なのは主が責任を取って下さるからです。明日を導かれるのは神さまです。明日を支配されるのは神さまです。だから心配するのは止めなさいと言われているのです。

このような内容でした~

愛餐会の料理はハヤシライス。茹でたブロッコリーとコーンを仕上げに加えました。デザートは伊予柑

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2009年2月22日 (日)

神に出会う道~2/22日曜礼拝

今日は日曜礼拝がありました。メッセージは東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。テーマは神に出会う道。聖句はヨハネ4章

今日はイエスさまと出会う道というテーマで4つの出会い方をお話ししたいと思います。

ひとつめ。イエスさまは必要を通して出会ってくださいます。

しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。(ヨハ4:4)

当時サマリヤはユダヤ人にとっては混血によって汚された異端の地でした。それは避けなければいけない罪人の地でした。イエスさまはわざわざその地を通っていかれたのです。

女は最初イエスさまと出会って、イエスさまに特別な何かを感じ始めます。そして女の過去がことごとく言い当てられることによって預言者であると思いはじめます。

女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。(ヨハ4:25~26)

イエスは大胆にもご自分を明らかにされます。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタ11:28)

重荷はわたしたちの敵ではありません。むしろイエスさまと出会う道なのです。

2つめは渇きを通して出会ってくださいます。

時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきた・・(ヨハ4:6~7)

通常、中東で井戸の水を汲みに行くのは朝か夕方の涼しいときです。真昼に井戸の水を汲みに行くのは異例のことなのです。この女は人目を避けて生活しなければいけない負い目があったのです。

彼女は人生の渇きありました。そしてイエスさまに自分の渇きを向けたのです。

渇きを妨げるものの一つは自己満足です。今の状態に甘んじるのでなく、信じることを広げていき、正直に渇きに変えていくことが大事です。

3つめは什一献金を通してわたしたちは神さまに出会います。

わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。(マラ3:10)

戦後日本はヒューマニズムという考えが広がりました。これは人間中心の考えです。反対にクリスチャンは神中心です。人間の考えからすれば、教会に献金するということはあまり意味がありません。もっと意味のあることに使えばよいと考えてしまいます。しかしわたしたちは神を中心にします。それはすべての財産はそもそも神さまに帰属し、神さまがわたしたちに分配してくださっていると考えます。

神さまはここでわたしたちに挑戦しておられるのです。それは神さまが分配されたものの10分の1を返してごらんと。そのようにしてわたしを試してごらんと。

それが祝福を受ける道だと教えているのです。

4つめは霊的な渇きを通して出会ってくださるのです。心の渇きは偽物に納得がいかない心です。本物があると求めていくことです。

祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。(ヨハ7:37~38)

日本語でも心の内面を示す言葉として「腹」と使います。「腹黒い」、「腹を割って」など「腹」と心の在処を一緒にしています。イエスさまを信じるとその人の一番奥深いところから泉が湧くのです。ため池ではありません。コンコンと湧く泉です。

テレビがあってもチャンネルが合っていなければ受信できません。わたしたちもイエスさまに心のチャンネルを合わせましょう。

このような内容でした~

20090222l 礼拝後、愛餐会がありました。今日の担当は、Matsuba さんご夫婦でした。料理は麻婆豆腐春雨スープ

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2009年1月18日 (日)

実を結ぶ信仰~1/18日曜礼拝

今日は日曜礼拝。教会の愛餐会(ランチョン)は、わたしたち夫婦の担当でしたので、いつもより早めに家を出ました。

礼拝のメッセージは東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。テーマは実を結ぶ信仰。聖句はヨハネ伝15章から。

わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。(ヨハ15:2)

クリスチャンは信仰生活をすることが目的ではありません。実を結ぶことが目的です。

今日の聖書箇所、ヨハネ15章1節から11節までに「とどまる」という御言葉が12回も登場します。

パウロは「キリストの中にある」を大事なこととして捉えていましたが、そのこととも関連のある言葉です。

今は実を結ばない時代です。物質文明が崩壊した感もあります。今まで頼ってきたことが消えた時代にあります。

ある意味、とてもめまぐるしく変化する時代です。しかしイエスさまは「ゆっくりわたしにとどまっていなさい」と言われたのです。

わたしはノルウェーの宣教師に導かれて信仰に入りましたが、その方と一緒に奉仕したという記憶はほとんどありません。もちろんそれもしましたが、記憶にあるのは宣教師の方が美味しいコーヒーを出してくれた、美味しいケーキ --- 手作りですよ --- を出してくれたこと、のんびりと語り合ったこと、そういったことです。そしてそのことが私の心に深く根ざして今のこのわたしがあるのです。

「わたしにとどまっていなさい」は英語では "abide me" と訳出されています。それはじっと待っていない際、覚悟して待っていなさいという意味合いのある言葉です。

人間関係がしっかりしていれば失敗しても赦すことができます。失敗しても期待することができます。逆に信頼関係がしっかりしていないと人間関係も愛も冷えてしまいます。消極的になってしまい、結果、赦すことができなくなってしまいます。小さな誤りも大きく考えるようになってしまう。

今、わたしたちが問われているのは、本当にイエスを信頼していますか、兄弟を愛していますかということです。

しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。(ロマ11:17~18)

パウロはわたしたちはイエスさまに接ぎ木されたものだという趣旨のことを語っていますが、接ぎ木というのは、枝を幹に差し込むことによって幹の栄養分をもらい枝が成長することです。それは瞬間接着剤のようにすぐに接がれるわけでなく、長い時間を要するのです。

わたしたちはすぐに結果を求めやすい傾向があります。そのために接ぎ木された枝を抜いたり刺したりして確かめようとする。それではいつまで経っても幹には接がれないのです。

田中つやという先生がお見えになりました。先生はわたしと会うたびにあなたのために祈っているよと言って握手する手に必ずお金を入れて渡してくれました。

この先生と会うとき、恐れさえ感じました。それはこの先生は本当に心から祈ってくださっているという真剣さがひしひしと伝わってきたからです。

先生は空港拡張で自宅が収用されたときも「自宅の敷地が広がった。感謝」と言って文句を言いませんでした。交通事故で障害を与えられたときも「損害賠償をいただいた。感謝」と言っても文句を言いませんでした。そんな先生も認知症になり老人ホームに入り、曜日も分からなくなりましたが、毎日「わたしは教会に行く」と言われて老人ホームの前で聖書を風呂敷に入れて待っておられたそうです。

この先生のことを思うと主にとどまって生き抜かれた人だと感動するのです。自分はどうだろうかと考えてしまうのです。

主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。(創3:9)

創世記3章には禁断の実を食べたアダムとエバが身を隠し、神さまから身を隠します。これに対して神さまは「あなたはどこにいるのか」と言われます。

わたしたちは生産性を求め、経済性を優先させて生きてきました。その思考回路は教会生活にも適用してきました。時間を掛けて祈れば大丈夫だとか、時間を掛けて聖書を読んだから良いとか、集会に出て恵まれたから安心だとか、考えてしまいます。それらはもちろん大事でしょう。しかしそれ以上に大事なことがあるのです。あなたはどこにいるのですか。あなたはイエスさまとどのような関係なのですか。

ビリー・グラハムの伝道で活躍した福音歌手の中に、ベバリー・シェアという方がおられます。彼は聖歌の「キリストにはかえられません」という聖歌を作詞してずっとそれで奉仕してきた方です。彼が90歳の時にその賛美を聞きました。若い人が歌えば声量もあるし、美声でしょう。しかしあの歌の中に生きてこられたんだ、あの信仰の中で生きてこられたんだと思わせる力がありました。

ではわたしたちの実とは何でしょう。ガラテア5章に書いてあります。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラ5:22~23)

愛、喜び、平和は、神さまに対する実です。

寛容、慈愛、善意は、人々に対する実です。

忠実、柔和、自制は、自分自身への実です。

イエスさまの弟子には、短気な人もいたし、疑い深い人もいたし、弱い人もいた。キリストの弟子になるというのは、枝が幹に結びつくことです。何かをやったことではありません。

このような内容でした~

20090118l 礼拝後、愛餐会。今日はハヤシライスをつくりました。隠し味は無塩トマトジュースと赤ワイン。これで高級感が出せます。

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2008年11月16日 (日)

わたしの畑~11月16日曜礼拝

午前中、日曜礼拝がありました。メッセージは東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。テーマはわたしの畑。聖句はマタイ9章から。

そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタ9:37~8)

イエスさまはここで天の御国を畑になぞらえておられます。あなたの家庭、あなたの職場、あなたの教会も畑にたとえることができるでしょう。そこで一体どのような実がなっているのでしょうか。

アダムからアブラハムまで2000年、アブラハムからイエスさままで2000年、そしてイエスさまから現代までが2000年です。イエスさまの時代の世界人口はおよそ2億人、ルターの頃(1500年頃)は4億人、1800年の頃は8億人、1930年には16億人、そして現在は65億人です。

世の終りには、どんな前兆がありますか(マタ24:3)

イエスはマタイ24章で終末について語っておられます。それは疫病が流行り、世界戦争が起こり、偽物の宗教家が起こり、多くの凶悪犯のために人々の愛は冷えるという世界、そのような畑のことが語られています。

日本では第二次宗教ブームと言われています。この10年で1500もの新興宗教が起こっています。オカルトやまじないの虜に多くの人がなっています。多くの人が精神的なスピリチュアルな世界に関心を持って1回30万円もするセミナーにも投資したりする。

人を生かすことのできない点数主義に捕らわれ、人間が点数によって評価されているのです。

また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。(マタ9:36)

イエスは弱り果てた民衆を見て憐れまれたと書かれています。今はまさにそのような時代なのです。人々は弱り果てている。畑をやった人なら分かりますが、畑の石を取り除き、肥料を与えてやらなければ、作物はなりません。

わたしたちは余りに多くの重荷を背負っています。イエスさまはそのようなわたしたちに向かって「重荷を負う者はわたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげよう」と日々語っておられるのです。

あなたの畑に作物は実っていますか?主は「収穫は多いが、働き人が少ない」と言われました。あなたと神さまの関係、それが畑です。その畑の石ころを取り除き、肥料をやり、多くの実りをもたらせましょう。

あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。(ヨハ4:35)

今が収穫の時なのです。

紅葉は上から光が当たったのを下から見るのが最も美しいそうです。わたしたちも光の武具を身につけましょう。イエスさまの光に当てられたとき、わたしたちは人生に本当の生き甲斐を感じることができるのではないでしょうか。

このような内容でした~

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2008年10月26日 (日)

仕えるしもべとしてのキリスト~10/26日曜礼拝

今日は日曜礼拝。愛餐会の担当の日でしたので、早めに出発。昨日仕込んでおいた鶏ガラスープを使ってミネストローネをつくりました。ほかはガーリックバタートースト

メッセージは東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。テーマは仕えるしもべとしてのキリスト。聖句はヨハネ福音書13章から。

最近のニュースは経済問題一色です。わたしの家内も株券が1/10の価値になってしまったと嘆いています。しかしこれはこの世の出来事です。

マタイ14章にはイエスが海の上を歩かれて弟子たちの所へ来られる話が載っています。これは静かな海を歩かれたと思いこみやすいですが、よく読むと嵐が吹き波に悩まされていたときであることに気付きます。

嵐の中にも主は来られるのです。今は経済的な嵐です。しかしその問題の中にもイエスは来られるのです。

さて今日はヨハネ13章を見ていきます。これはイエスさまが弟子たちの足を洗われる記事ですが、1節の部分の文語訳が実に味があります。

イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り、世に在る己の者を愛して、極までこれを愛し給へり。(13:1)

「世に在る己の者」とはクリスチャンのことです。これを「極までこれを愛し給へり」というのです。英語なら "love unto the end" です。この世の終わりまで、隅々まで至る愛をもって愛される、この世の時間の外でも、この世の領域を超えて愛されるのです。

すべてのわざには時がある(伝道の書3:1)。聖書には「神さまの時」と「人間の時」の対立が書いてあります。たとえばイエスがご自身が十字架に付くことを予告されたとき、弟子たちはごぞって阻止しようとしました。

こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。(13:6)

ペテロはイエスが足を洗っている意味が分かりませんでした。イエスはわたしたちの罪を洗い清めるために来られたのです。バプテスマを受けた人は全身が清い者とされます。しかし日々の歩みの中でわたしたちは罪を犯します。そのような日々の罪を洗い清めてくださる方をわたしたちは必要としているのです。

足は洗うのは奴隷の仕事でした。イエスは自ら奴隷のようになられたのです。そこまでしていただかないとわたしたちは清くならないのです。そこまでして人に仕えるべきことをイエスさまは教えてくださったのです。

人の前に跪くこと。こうして始めてわたしたちは主の晩餐に付くことができるのです。そこに主が極みまで愛してくださった御愛を見ることができるのです。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。(13:15)

わたしがそうしたのだから、あなた方もそうしなさい。イエスさまはそのように言われました。その気持ちで仕えあっていきましょう。それが神の国です。

このような内容でした~

20081026l 礼拝後の愛餐会は30名ほど残り、楽しい時を過ごしました。

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2008年8月24日 (日)

目の見えない人の癒し~8/24日曜礼拝

今日は日曜礼拝。メッセージは先週に引き続き東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。テーマは目の見えない人の癒し。聖句はヨハネ9章から。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。(ヨハ9:2)

不幸な境遇にいる人に出会うと、ある人は因果応報だというでしょう。ある人は先祖からの因縁がそうさせたのだというでしょう。あるいはそれは運命だとか、方角が悪いのだというでしょう。弟子たちもそう思ったのです。

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(ヨハ9:3)

しかしイエスの答えは不思議なものでした。この人の上に神さまの愛が現れるためだとおっしゃったのです。

わたしたちは生まれつき目の見えない者です。本物が見えていないのです。

先週の礼拝でも言いましたが、神さまは考えて分かるようなお方ではありません。聖書を読んで、注釈書を読んで、そして考えていても、途中で止まってしまうのです。聖書がいっているのは、神さまのすべては分からないけれどもそのまま信じなさいといっているのです。そうすれば様々なことが見えてくるのです。

わたしたちが「イエスを信じます」と告白するとき、実はすべての将来がその言葉の中に入っています。考えても考えつかないいろいろな将来 --- 禍もあれば、試練もあれば、誘惑もあります --- とにかくすべてがその信仰告白の中には入っているのです。信じるというのはそれほどに深い意味を持っているのです。

イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。(ヨハ9:6~7)

いろいろな障害が人生にはあります。それらの障害は自分で取り除きたいとあれこれその方策を考えますが、自分の力には限界があります。この盲人の場合も、イエスさまが取り除かれたのです。

この箇所で「シロアム」という池が出てきますが、この意味がわざわざ記されています。それは、つかわされた者、の意だと。「つかわされた者」とは誰でしょう?イエスさまではないですか!これはわたしたちがイエスさまの御許に行くべきことを暗示していると思います。

そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。(ヨハ9:10)

この癒しの後、多くの人が、この盲目の人に聞き出そうとします。しかし、何度も何度も説明しても理解できないのです。彼らが神さまを考えようとしたからです。そして信じようとはしなかったからです。

イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハ9:41)

わたしたちは生まれつきの盲人であることを素直に認めましょう。そしてイエスさまの御許に行き、見えるようにしていただきましょう。自分の人生すべてをキリストに委ね、信じていきましょう。

このような内容でした~

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2008年8月17日 (日)

賢い人のように歩む~8/17日曜礼拝

20080817 今日は日曜礼拝。メッセージは東名古屋キリスト教会主任牧師の小池冨雄先生が取り次がれました。テーマは賢い人のように歩む。聖句はエペソ書5章から。

前回前々回からエペソ書5章について取り扱ってきました。前々回が愛のうちに歩む。前回が光の子として歩む。そして今回は賢い人のように歩むがテーマです。

賢い人とは誰でしょう。勉強ができる人でしょうか。要領のいい人でしょうか。そうではありません。聖書が語っているのは、知恵のある人のことです。

そしてその知恵とは本来神からいただくものです。この世の知恵ではありません。この世の知恵は考えるものです。考えることには限界があります。パウロは考えることによるのでなく、信じてくださいと言っているのです。

ロダンの考える人をみなさんご存じでしょう。最近知りましたが、これは1900年初期の作品ですが、彼は1200年頃に書かれたダンテの神曲を読みながら製作したそうです。神曲には地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部に分かれています。この考える人は下を見ていますが、それは地獄へ吸いこまれている人たちを見ているとの想定で造られているということです。考えるだけでは何も生まれないのです。

そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。(ヤコブ3:15)

ヤコブは知恵にも上からのものと、下からのものがあると語っています。上からの実は清さ、平和、寛容、温順などがあり、下からの知恵には苦々しいねたみや党派心であり、それは悪魔からのものだと断言しています。

わたしたちは将来どうなるのか不安の中にあります。これは考えていても不安ばかりが増幅されるばかりです。わたしたちは主がどんなに大きなことをしてくださり、大きなことをこれからもわたしたちのために備えてくださっていることを信じることが解決なのです。

あなたの機会を十分に生かしなさいと主は言われます。自分ができることをまずしてあげて下さい。子供は大人が応えることによって成長していきます。わたしたちはほかの人の成長のために応えていきましょう。

酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。(エペソ5:18~19)

自分のなすべきことは何であるかを悟ることが大事です。それは自分の考えではありません。イエスさまの考えです。主の御心はどうしたら分かるか。それは賛美の歌をうたうことによってわかると聖書に書いてあります。

今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。(エペソ5:16)

本当に今は悪い世の中です。みなさんも実感しているはずです。無差別殺人、物価高、医療問題、温暖化とさまざまな悪がはびこっています。

賢く歩むためには、神の御霊に満たされることです。そして主に礼拝を捧げなさい。奉仕にかかわる生活をしましょう。神からの知恵を求めましょう。

このような内容でした~

20080817l 礼拝後、近くのサイゼリヤにて信徒のみなさんとランチに。楽しい時を過ごしました~

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2008年7月27日 (日)

暗闇から光~7/27日曜礼拝

20080727w 今日は日曜礼拝。メッセージは東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。テーマは暗闇から光へでした。聖句はエペソ5章から。

あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。(エペ5:8前)

クリスチャンになる前と後を考えてください。時々キリストに出会うことがなかったなら、自分の人生はどのようになっているかと考えると、恐ろしくなることがあります。

パウロがこの手紙を書いたのは、今はトルコにあるエペソの町の人たちに対してでした。エペソの町では宗教が性的なことと結びついていて神殿には娼婦や男娼がいて、姦淫を犯していました。人々は神殿で行われることだから正しいことだと信じてそこで姦淫をおこなっていたのです。それは子どもが増し加わり、国が栄える行為だから正当化もされていました。人々は豊穣の神のもとで大いなる不品行を繰り返していたのです。

性道徳が宗教によって破壊されていたのです。宗教が不道徳と結びついて売春が横行していたのです。パウロはそのことが偶像礼拝だといっているのです。

光の子らしく歩きなさい(エペ5:8後)

太陽の光が木々植物に実を結ばせるように、義の太陽であるイエスさまに触れられると多くの実を結ぶようになります。

光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである(エペ5:9)

光の実とは、善意、正義、真実です。善意とは報酬を求めないこと、正義とは神の国を望み見て正しく全く歩むことです。善意とは誠実であり、信頼されることです。

このような光はイエスさまの光があなたに当てられ、反射しているから輝くのです。

わたしたちは光を見ているだけでなく、何よりもその中に入っていくことが大事です。その経験を通してわたしたちは一生忘れることのできない世界を体験できるのです。聖書の御言葉を自分がまずしてみることです。

光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。(エペ5:13~14)

わたしたちはイエスさまの光にさらされるとき、罪を告白しないではおられません。わたしの教会のある姉妹は、2,3年の間、不倫関係にあったことを告白しました。またある兄弟は憎しみの塊があることを告白しました。彼らは告白して晴れやかになりました。それは光にさらされ、赦された実感を得たからです。

このような内容でした~

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2008年6月22日 (日)

クリスチャンの歩み方~6/22日曜礼拝

今日は日曜礼拝。メッセージは東名古屋キリスト教会小池冨雄先生が取り次がれました。聖句はエペソ4章24節から5章2節。テーマはクリスチャンの歩み方でした。

エペソ5章には、クリスチャンの歩み方として3つのことが書かれています。

まず2節の「愛のうちを歩きなさい」。そして8節の「光の子らしく歩きなさい」。最後に15節の「賢い者のように歩きなさい」。

今日は「愛のうちに歩く」ことに焦点を絞ってお話しします。

すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。(エペ4:31)

パウロはここで「捨て去りなさい」といっているわけですが、それは異教徒であったときに持っていたものを捨ててしまいなさいといわれたのです。

無慈悲とはギリシャ語で「πιχρια(ピクリア)」ですが、それは「和解さえも拒否する思い」という意味だそうです。自分が受けた侮辱に対して相手への恨みを思い続けるその心です。

憤りとは、ギリシャ語で「θυμοs(トゥモス)」ですが、それは「感情の爆発」という意味です。それは焚き火の炎が燃え上がるようなものです。最近秋葉原で痛ましい事件が起きました。容疑者の男性は自分が社会から無視された存在であることに腹を立てて自分で自分を制することのできない憤りに襲われて事件を起こしたということですが、人間の怒りというのは本当に恐ろしいものです。

それではこれらの罪なる感情をどこに捨てるのでしょうか?

それは罪が赦されている場所に捨てるのです。イエスさまは「わたしのところへ来なさい」といわれました。それは自分の罪をきれいにしてからではありません。罪の姿のままありのままの姿でイエスさまのところへ行くのです。それは罪を赦す権威のある方はイエスさまをおいて他にいらっしゃらないからです。

彼は人の持っている全ての罪をあがなわれた---すべて赦されたのです。悪意、そしりそれ以外のもろもろの罪を全部十字架の上に捨て去ったのです。

互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。(エペ4:32)

わたしにも赦せない人はいます。会うのも嫌という人もいます。赦そうと赦そうとは何度も思っています。それでも腹の底からは赦せない。不思議なことに神さまはそのような人にわざと会わせられるのです。神さまはそれを通して人生のレッスンを与えてくださるのです。有意義なときとしてくださるのです。

この間も10年来口も聞きたくないと思っていた人の所に宿泊せざるを得なくなりました。宿泊した夜、その人と久しぶりにゆっくり話しました。そして話をしていく内に互いに赦す心が芽生えていきました。不思議なことです。

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。(エペ5:1)

最近わたしは習字の練習を始めました。ある信徒が小学生相手に習字の教室を最近始めたので、字の下手なわたしも便乗したわけです。

習字とは最初はお手本をなぞることから始めるそうです。お手本のとおりに書いていく。

わたしたちはいくら頑張ってもイエスさまにはなれないと思われるかも知れません。しかし元々わたしたちは、神のみすがたに似せて造られたと書いてあります。わたしたちには神さまのように造り変えられる素質を持っているのです。

また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。(エペ5:2)

キリストはわたしたちを神のみすがたに回復されるために神の香りとしてその身を捧げられたのです。キリストはわたしたちだけでなく、すべての人のために捧げられたのです。その愛の中にある時に互いに赦し合うことができるのです。

このような内容でした~

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2008年5月18日 (日)

あなたにとってイエスとは誰か~5/18日曜礼拝

20080518w 今日は日曜礼拝。メッセージは東名古屋キリスト教会小池冨雄先生。聖句はマルコ10章46~52節から。テーマはあなたにとってイエスとは誰かでした。

イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。(マル10:46)

ここでの記事は、イエスが十字架が間近に迫っていて、ご自身もそれをよくご存じの緊迫した状況でした。

この盲人はエリコから出られる時のイエスをとらえて叫んだのです。

ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。(マル10:47)

この盲人バルテマイが、「ダビデの子イエス」と呼んでいることに注意してください。人々はイエスのことを「ナザレのイエス」と呼んでいました。

ダビデはイスラエル史上の有名な名君です。そして彼の子孫から救い主メシアがお生まれになることをバルテマイは誰かから聴いて知っていたのでしょう。彼はイエスに叫んだだけでなく、イエスを救い主メシアとして信仰告白しているのです。

今日はこのバルテマイの信仰に倣って欲しいと思うのです。

イエスはエリコを出られようとしていました。だからこの盲人にとってはイエスを呼び求めるラストチャンスかも知れないという緊迫感がありました。ましてや自分は目が見えない。イエスを追っていくこともできない。「この時しかない!」

多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。(マル10:48)

だから彼はみんなから「黙れ」と叱られても黙りませんでした。

わたしたちはどうでしょう。今後のために不動産を準備しよう、お金を貯めよう、などと将来に備えます。それ自体悪いことではありません。しかし、その日、その時、この朝、この時にしか与えられていないチャンスがあるのです。

そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。(マル10:50)

バルテマイは上着を脱ぎ捨ててイエスさまの元に来ました。彼は自分を覆っていたものを脱ぎ捨てました。わたしたちもさまざまなしがらみで覆われています。肉体的なもの、霊的なもの、その覆いはさまざまです。しかし、わたしたちはこのバルテマイに倣ってそれらの覆いを捨て去ってイエスさまに信頼することが必要なのではないでしょうか。

イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。(マル10:51)

イエスさまは今更ながら何をして欲しいかとバルテマイに聞かれました。わたしたちも分かり切ったことでも再び言い表すことが必要なのではないでしょうか。

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(ピリ3:12~14)

パウロはここで、自分は生涯求道者だと告白しています。わたしたちも死ぬまでダビデの子、イエスを叫び求めていく者です。神さまが求めておられることを求め続けましょう。

ファニー・クロスビーは、5000曲以上の賛美歌を作詞しましたが、盲人でした。生後6週間の時に医療ミスで視力を失ったのです。彼女はこのバルテマイのことを偲んで詩をつくりました。それが聖歌540番、主よわがそばをばなのです。

主よわがそばをば すぎゆかず
なが目をばわれに むけたまえ
主よ主よ ききたまえ
せつによびまつる わがこえに

主はわがいのちぞ なぐさめぞ
他にはたのむべき 神あらじ
主よ主よ ききたまえ
せつによびまつる わがこえに

このような内容でした~

礼拝終了後、教会の年次総会があり、わたしは水曜日クラスの報告しました。

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