聖会

2009年1月11日 (日)

すべては新しくなりました~1/11新年聖会

午後3時30分から教会合同の新年聖会がありましたので、参加しました。

20090111c メッセージは、保見キリスト教会(豊田市保見ヶ丘1丁目78 電話0566-48-3562)高橋吉晴先生が取り次がれました。

聖句はヨハネ15章から。テーマは、見よ、すべては新しくなりました

わたしたちはクリスチャンになったからといっても、ねたみ、怒りが出てきます。自己中心の思い、貪欲、憎しみ、神よりも人を恐れる心、虚無感、金銭や性の汚れ。このようなものが内側にこびりついています。

このようなものは正直に自分を見たらあるのです。聖書ではこれを古い人と呼んでいます。

しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば・・(ロマ11:17)

わたしたちは野生の木でした。それがイエス・キリストに接ぎ木されてその栄養分に預かっているのです。

とはいってもわたしたちは「どうも納得いかない」と感じるかも知れません。なぜならば何ひとつ変わっていないように思えるからです。

あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。(コロ2:12)

要は自分の感覚を信じるか、それとも聖書を信じるかということです。

感覚はいつも正しいとは限りません。山道で遭難した時に同じ道をグルグル回っていたということがあるそうです。まっすぐと感じていても同じ道を繰り返す。これが人です。これから脱出するためにはどうすればよいのでしょうか?そうです北を変わらずに示す磁石を信じることです。

このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。(詩1:2)

クリスチャンにとっても磁石とは御言葉です。主が喜ばれる人は自分の感情により頼む人ではありません。昼も夜も御言葉を口ずさむ人です。

わたしたちは現実を無視しているのではありません。古い人の性質は厳然としてわたしたちにあるのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリ5:17)

聖書は新しくなるだろうとは言っていません。「新しくなった」と言っているのです。わたしたちの信仰は実際にないものを信じる信仰ではなく、実際にあるものを信じる信仰です。実際になければそれは単なる思いこみになってしまうでしょう。

愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラ5:23)

転んだら立ち上がるのです。つまずいたなら起きあがるのです。その時、あなたは聖書に御霊の実と書いてあるこれらのことが与えられていることに気付くでしょう。

このような内容でした~

20090111c1 聖会後、持ち寄りパーティーがありました。

バイキング形式でした。

20090110c わたしは昨夜焼き上げたバナナシフォンケーキを提供しました。

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2008年8月16日 (土)

背後の祈りについて~8/16夏期聖会(午後)

200808161 今日は所属教会の夏期聖会が午前、午後の2部ありましたので出席しました。メッセージは八尾福音教会(大阪府八尾市桜ヶ丘 1-31-3 電話072-999-7988)の主任牧師・道本純行先生が取り次がれました。

午後のテーマは背後の祈りについて。聖句は出エジプト記17章から。

あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。(申25:17~18)

この章ではアマレク人がイスラエル人の背後を突いて攻めてきたときの話が記載されています。信仰の危機は疲れているときにやってきます。疲れはつぶやきに変わり、つぶやきは反抗に、そして滅びにつながります。

モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。(出17:11)

ここでは丘の上の戦いと平地の戦いについて述べられています。平地ではヨシュアが戦っていましたが、丘の上では激しい祈りがなされていました。それが勝利の理由だったのです。

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ヤコブ1:5)

聖書の中で富や財産については求めてもとがめられませんが、知恵については、どんなに求めても主からとがめられることはありません。

祈りは工夫と聖霊によってなされるものです。キリストの中によみがえらされて、毎日デボーションを欠かさずにして、清い手を挙げ、時には異言で祈ることが必要です。異言は神さまとのホットラインです。手を挙げて祈ることは降参も意味します。主に全く委ねて自分ではできない、主にしていただくしかないという気持ちが必要です。

教会の信徒で学校の先生がいました。彼のクラスは荒れに荒れて学級崩壊状態でした。ある時、彼は「わたしはもう担任を辞めます。イエスさま、あなたがこのクラスの担任になってください」と祈りました。

その日から彼は教室に入る前にまず「イエスさま、どうぞ」と言って、イエスさまにまず教室に入っていただき、その後自分が入るようにしました。

この後、このクラスが一変したのです。ある時、遅刻した女子生徒が「先生、今日、先生の前に白い衣を着た外国の人が入っていったけど、あれ誰なの?」と聞いてきました。

みなさんにはその方がどなたなのか分かるでしょう。主を自分の家の主人に迎えましょう。

このような内容でした~

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あなたの天幕を広げよ~8/16夏期聖会(午前)

20080816 今日は所属教会の夏期聖会が午前、午後の2部ありましたので出席しました。メッセージは八尾福音教会(大阪府八尾市桜ヶ丘 1-31-3 電話072-999-7988)の主任牧師・道本純行先生が取り次がれました。

午前のテーマはあなたの天幕を広げよでした。聖句はイザヤ書54章から。

「子を産まなかったうまずめよ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。(イザヤ54:1~2)

子を産まなかった、産みの苦しみをしなかった、夫のない者と3つの表現で語られていることは、特定の個人ではなく、国家的なことです。具体的には南ユダがバビロンに捕らえ移された状態を指しています。

それゆえここではまず、南ユダの解放を表しています。そしてキリストが来られて福音が全世界に宣べ伝えられることも表しているといわれます。

ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。(歴代上4:10)

わたしたちは祈るときに、御心がなりますようにと控えめに祈ることがよいと思いがちです。しかし、このヤベヅの祈りを読んで下さい。彼は大胆に主に祈り求め、それが聞かれたと書いてあります。

わたしはよくひとりになって祈ります。そんな時は両手を天に上げて、人に聞かれたら恥ずかしいようなお願いもします。神さまはわたしたちのお父さんなのですから、何でも祈り求めればいいのです。

最近「思いが実現する」ことをテーマにした本がよく売れると聞きました。確かに一面そうでしょう。今の文明はわたしたちがもしこのようになったらいいのになぁということが実現しています。

信仰もまずは思いを持つことが大事です。そのような意味では暗示と信仰は似ているかも知れません。しかし、決定的に違うのは、暗示はないものを信じていますが、信仰はあるものを信じていることです。

太宰治は聖書を読んでいましたが、信仰に至らずに自殺しました。ある学者によれば、それは「聖書によって自分を読んでしまったからだ」と表現しました。1人で聖書を読む危険性がここにあります。山上の垂訓を読んでいると、「神さまは要求しておられるのに自分にはできない」と情けない思いが出てきます。だから教会で聖書を読むことが大事です。そこで互いの不完全さを告白するときにほかの人も同じであることに気付かされるのです。

ここに弟子訓練の秘訣もあります。聖書を読んで信徒同士で勉強し合い、発表し合う。そこで信徒一人ひとりが大きく成長するのです。説教を聞くだけでなく、自ら探し出して御言葉を食べていく姿勢が必要です。

パナソニックの創立者の松下幸之助さんの本を多く読みました。ある人が心配して松下さんに「経営のノウハウを教えておられますが、真似される危険性があるのでは?」と助言しましたが、松下さんは笑って「誰も実行しないから大丈夫ですよ」と応えたそうです。

日本のクリスチャンは福助クリスチャンが多いと思います。耳だけ大きくて、足腰が弱い。足腰が丈夫というのは、デボーションの時間を持ち、人生に証しがあり、捧げる心を持っていることです。献金の話をすると「牧師がお金を狙っている」と非難する人もいますが、そんなことありません。主のために用いて下さいと祈って捧げるならば、それを何倍にもして用いて下さるでしょう。

このような内容でした~

お昼は持ち寄りパーティ。わたしたちは近所のスシローで予約しておいたお寿司を提供しました。

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2007年8月14日 (火)

宣教 8/14午後 聖会

所属教会の夏期聖会の2日目午後におこなわれました。3回目、最後のセッションです。講師は、関西聖書学院大田先生。

聖句はマタイ13章から。天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。

最初は小作人の話。当時のイスラエルでは蓄財をするために銀行か地中に埋めるかのふたつの手段があったようです。そして地中に埋めておいて家族が戦死するなどして記憶から消えてしまった財産もあったようです。ですから、このように畑で宝物を見つけることも稀ですがあったようです。

奥山実先生は、「もしキリスト教が宗教であるならば、ほかの宗教は宗教とは呼べない。もしキリスト教以外の宗教が宗教であるならば、キリスト教は宗教とは呼べない」と言われました。キリスト教はほかの宗教とは同列には扱えない。全く別の次元のものです。

ヒットラー政権下、ドイツの神学者ボンヘェッファーは故国に戻り、ナチスの活動への明白なプロテストをします。当然ナチスに逮捕され、投獄されます。彼は獄中で諸教会に対して多くの手紙を書き送りますが、「無代価で届けられた福音は、無条件の服従を要求している」という言葉を残しています。わたしたちはこの峻厳さを忘れてはなりません。

現在日本には7000以上の教会がありますが、その中で一番大きな勢力は日本キリスト教団で1700の教会があります。しかしこのうち、牧師が高齢のため無牧になってしまった教会が400~500あるということです。合併、統合してどうにかしのいでいますが、牧師不足は明白です。働き人を必要としているのです。まさに収穫は多いが働き人が少ない(マタイ9:37)のです。牧師が少ないためにせっかく収穫されるべき実がまやかしの教義でカルト化するなど危険な状態になります。

召しを受けたと感じた信徒がいるならば、是非主の前に出て行きましょう。このような内容でした。

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聖霊について 8/14午前 聖会

今日は所属教会の夏期聖会の2日目です。講師は昨日同様、関西聖書学院の大田先生。

20070814c 午前と午後のセッションがあり、午前中は聖霊についてのお話し。聖句はマルコ14章から。

イエスさまはかつてらい病人であり癒されたシモンの家を拠点として活動をされました。らい病人といえば、当時コミュニティからはみ出した人たちでした。そのようなはみ出した人たちの家が喜びの輪の中心になっていた。

ここで名前も記載されていない女がイエスのために「石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた」と書いてありますが、3つのことがポイントです。

ひとつめは、なぜ壺を割らなければいけなかったのでしょうか?それは1グラム5000円ぐらいで大変高価だったから注ぎ口は本来大変小さなものだったからです。あまり多く出ては困るわけです。イエスさまに惜しげもなく掛けるためにその女は割ったわけです。

イエスさまが十字架に付けられる2日前です。状況は緊迫していました。その女はそのただならぬを察して、家にあるもので大事なものをイエスのためにささげたのです。

器が砕かれたことが大事です。壺が割られたときに部屋中にその香油の香りが満ちたことでしょう。わたしたちも砕かれてはじめてそのうるわしい香りを発することができます。

ふたつめのポイントは、イエスが、また「この女はわたしの葬りのために立派なことをしてくれた」と言われたことです。弟子たちはこの女の行為を無駄のことと思っていたようです。十字架はわたしたちへの裁きでした。その裁きを受けられるイエスさまのために葬りの準備をしたというのです。

次にイエスは再臨されます。そのためにわたしたちはどのような準備をすることができるでしょうか。それは宣教です。イエスさまはマタイ24章でこの世の終わりのしるしの予言をされました。10のしるしのうち、わたしたちにできるのは、世界宣教だけです。宣教は聖霊の働きによるものです。

ハドソンテーラーは中国伝道を終えて宣教師を引退し、故国で療養生活を送っていたときに、義和団事件が起こります。彼は同僚の宣教師のためにいてもたってもいられなくなり、中国に入り、そこで仲間の187人の宣教師と共に殉教します。

宣教師の歴史を読んでいるとそれは聖霊の神さまの働きを感じずにはおられません。

3つめのポイントは、この女が自分ができることをしたということです。神さまはわたしたちができないことは要求されません。向こう岸にあることを要求はされないのです。「わたしは信仰がない」と嘆いている信徒がいますが、信じたあなたはそれだけで十分な信仰があるのです。自分の信仰を再評価することも必要です。

神さまの愛は無尽蔵、掛け流しの愛です。人間は「3つまでは許してあげる」程度です。聖書の中に「一番よいもの(イエスさま)を与えてくださった神さまは二番目、三番目のものを与えてくださらないわけがない」(ロマ書8:32)という御言葉がありますが、人との違いは歴然です。普通は一番目はとっておいて、二番目、三番目のものを与えないでしょうか。神さまはすべてを信徒に与えると言われているのです。

神さまを拝み、イエスさまに任されたものを忠実にこなし、よくやったと言われる者になりたいです。このような内容でした~

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2007年8月13日 (月)

クレネ人シモンの信仰~~8/13聖会

今日、明日とミッションの聖会がありましたので、参加しました。

20070813c 特別講師の先生は関西聖書学院学院長の大田裕作先生。独特の語り口調に思わず引き込まれます。

聖句はルカ23章26節彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。

十字架はローマの刑罰の中で最も残酷なものです。それは出血多量で死ぬのでしょうか?そうではなく、呼吸困難になって死ぬのです。イエスさまは前日不眠で裁判に掛けられ疲労が限界に達しておられたので、6時間ほどで息絶えられましたが、ほかの囚人たちは足のすねを折られ、死期を早められました。

イエスさまの十字架を背負わされたクレネ人シモンについて、見てみましょう。マルコ伝には「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」とさらに詳しく書かれています。そして、ロマ書には、「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」このシモンは教会の中でもよく知られた人でした。

このシモンから信徒のあるべき姿勢を知ることができます。

ひとつめは、人の側から見れば偶然でも神さまにとっては計画であること。シモンは北アフリカのリビアのトリポリのユダヤ人でした。デアスポラなのか、改宗者なのかは分かりません。しかし彼はあまりお金持ちではなかったこと、おそらくは過越祭に参拝するためにお金を貯めたことがうかがわれます。彼は何でこんなことになってしまったのだろう?とかなり惨めになってしまったことでしょう。しかしそこに神さまの計画があったのです。

ふたつめはイエスの後から背負ったことです。イエスさまの背中はむち打ち刑のため血まみれになっていました。そしてドロ・ローサを歩んだとき、多くの人にののしられ、つばきされ、棒で打たれ、石を投げられたました。わたしたちの信仰はイエスの背中を見ることによって生じます。十字架にいよいよ掛けられたとき、ふたりの囚人ははじめは呪っていましたが、そのうちひとりは回心しました。その場に居合わせた百卒長は「この人こそ確かに神の子だった」と告白しました。シモンにも確実な回心が生じたのではないでしょうか。

3つめは十字架を背負うことです。彼は十字架など背負いたくはなかったに違いありません。しかしたまたまその場に居合わせたローマ兵によって強制的に十字架をおわされた。自分の十字架を選ぶ人がいますが、神さまから強制的に背負わせられる十字架もあります。「イエスさまと共に十字架を背負う」と象徴的には言いますが、文字通りイエスさまの十字架を背負ったのはこのクレネ人のシモンだけでした。

まさに、十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力(1コリント1:18)です。

主はわたしたちの十字架を内側から支えてくださいます。このような内容でした。

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