修養会

2008年1月13日 (日)

キリストの中にとどまる~1/13新年聖会

今日は家の行事があり、日曜礼拝には出席できませんでしたが、午後からの新年聖会には出席できました。

20080113y 賛美の後、豊田ホープチャペルの山本孝司先生からメッセージ。テーマはキリストの中にとどまる。聖句は第1ペテロ5章から取り次がれました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。(1ペテ5:8)

腰掛け的信仰では成長はありません。本当のクリスチャンになりたいのであれば、キリストの中にとどまることが必要です。わたしたちはキリストにとどまろうとすれば、多くの誘惑があります。

クリスチャンになっても問題は起こる。問題や課題があるから祈り、聖書を読まざるを得ないのです。

敵は恐いスタイルであなたの所に来るのではありません。むしろ親切心の塊でやってきます。そして彼らの話を聞いているとウンウンと頷けてしまうのです。しかしそれは敵サタンの巧妙な仕掛けです。彼らのしたいことはとにかくあなたの心をイエスさまから離れさせて、今向かっている天国から軌道修正させたいのです。それは余りにも耳障りのいい教えなので、つい耳を傾けてしまうわけです。

サタンはわたしたちがキリストにとどまることを特に嫌がります。木も枝も成長するときにエネルギーが入ります。花も咲くときに大変な栄養がいるのです。わたしたちも信仰書を読んだり、聖書知識の豊富な先生の話を聞くことでキリストにとどまるための栄養をいただけます。だから機会があれば、できる限り時間を割くことです。

聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。(ユダ3節)

そして戦いがなしには成長もありません。そうしないと祈りも眠たいものになってしまいます。

初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。(1ヨハ2:24)

キリストにとどまっていると、聖書を読むときに御言葉を通して自分が何をすべきかが見えてくる。御言葉は自分に適用するときに初めて力となります。聖書を通して神さまからの語りかけを聞くようにしましょう。

毎日のデボーションとは別に聖書の専門的な書物を読むこともお勧めします。聖書をどれだけ読んでいるかによって成長が違います。キリストにとどまるためには学ぶことが必要です。これを怠るとクリスチャンとしての成長が鈍くなります。

みなさんはプロテスタントの教会に所属していたのではなかったでしょうか。プロテスタントとはカトリックと異なり聖書を学ぶことが前提です。今は違いますが、もともとカトリックは司教などの資格を持った教師のみが聖書を読むことが許されました。それは信徒みんなが読んでしまうといろんな考えを持つようになり混乱してしまうからだと考えられました。しかしあなたがたはプロテスタントの教会の信者なのです。日々新たに聖書をもっと学ぶことが大事です。

あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。(1コリ3:16)

キリストの中にとどまるとは聖霊の中にとどまることでもあります。ゴミの中に聖霊は住みたいと思われるでしょうか?毎日自らを清め、聖霊を歓迎する姿勢が必要です。もし毎日10分賛美している方がお見えになれば、これからは20分賛美しましょう。賛美には力があります。

そしてキリストにとどまるとは、教会にとどまることでもあります。神さまは計画を持ってわたしたちとこの教会に集めてくださいました。あなたの周りには嫌な人もいるでしょう。しかしそれはあなたのために主が与えられたのです。もしあなたに愛があるならば、忍耐もできるはずです。

上に立つ指導者に従いなさい。牧師、宣教師に対して感謝と祈りを捧げない信徒は情けないです。牧師の文句を言う前にその牧師のために祈りなさい。そうすると用いられる牧師になります。

キリストにとどまるためには、あなたに与えられている賜物を活かして奉仕をすることも必要です。そのためにもあなたの賜物は何かを知ることが必要です。賜物を用いられると教会にとどまることが楽しくなります。

ある先生がつぎのようなことをおっしゃいました。日本人は農耕民族がベースにあるので、和を尊ぶが、独自性に欠ける。西洋人は狩猟を基本としていたので、独創的だが協調性に欠ける。クリスチャンに必要なのは、ヘレニズム的な協調性、和と独創的な働きの融合ではないでしょうか。

織物は縦糸、横糸で様々な模様を織りなします。同じように教会でも自分の持っている意見を出しあい、美しい霊の織物を作り上げたいものです。わたしたちは目的を持ってここに集められているのです。もし意見があれば、ダメもとで教会のリーダーに提言してみてはどうでしょうか。

あなたがいなければ、ここの所属教会のカラーは出ないのです。神さまはあなたの働きを必要としています。

このような内容でした~

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2008年1月 1日 (火)

喜んで主に仕える~1/1新年礼拝

帰省の7日目、最終日の午前中、新年礼拝があったので、母と一緒に出席しました。

メッセージは八幡前田教会(福岡県北九州市八幡東区前田1丁目10-23 電話093-671-1386)金生一郎先生から。テーマは「喜んで主に仕える」です。

聖句は詩篇100篇1節から5節。

全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。(1~2節)

仕えることの重要さを教えられる毎日です。主のしもべとしていただくというのは信仰生活の原点であると感じています。

そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。(ルカ1:38)

人間的に考えると「しもべ」とか「仕える」ということを押しつけられたら、気が重くなってしまいます。しかしわたしはそれが主からの大きな恵みと感じています。

取るに足りない者を救いに預からせて、主に仕える者に変えてくださった。これが誇りになり、喜びにつながるのです。仕えるというのは嫌々ながらでなく喜んでするべきことなのです。

時々未信者の方から「教会というのはどのようなところですか?」「毎週行かなければ行けないのですか?」「教会活動は大変ですね」と言われることがあります。

しかし、わたしたちにとって教会に行くことは喜びなのです。

もしも義務的に主の御前に集うとすれば、それはむなしいことです。わたしも毎週教会に行くことが苦痛なときがありました。決められたこととして縛られていましたが、喜びをもって主に仕えていくことへと変えられていきました。

受胎告知を受けたとき、マリアは「わたしは主のはしためです」と告白しました。そのとき彼女の不安、恐れは消えていきました。主が共におられることを確信したからです。そして「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます」という信仰告白につながっていったのです。

もしマリアが自分が主人であったと感じていたとすれば、このような賛歌は歌われなかったでしょう。しかし彼女は自分が「主のはしため」である、つまり自分を無にしたときに喜びが溢れてきたのです。わたしたちは日々「主に仕えていくこと」を問われているのです。

ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った。(サム上21:10)

ダビデはサウル王に追われたとき、主を頼みとしないで、ガテの王アキシを頼りとしました。わたしたちは目の前の事柄に眼を向けると恐れて不安になることがよくあります。実はそれは神さまに仕えていく姿勢が崩れていることなのです。それによって恐れと不安に悩まされるのです。

ダビデはついにはアキシをも恐れ気が狂ったふりをして命からがら逃げ出します。

マリアは天使からの突然の告知に対して主をたたえ自分を無にしましたが、それによって問題が解決したわけではありません。しかし主が働かれているとの信仰を持ったときに喜びに満たされたのです。

わたしたちもダビデのように主に背を向けてしまうことがありますが、再び主に立ち返ることができます。神さまがわたしたちの上司になってくださるとはなんと心強いことでしょうか。

喜びをもって主に仕え、一日一日を着実に主に仕えていくことが大事なのではないでしょうか。牧場の羊たちが毛を刈りとられるとき、その主人にじっとして身を委ねています。そのようにわたしたちも神さまにお任せで身を委ねていくこと。それがポイントです。

このような内容でした~

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2007年7月31日 (火)

カンファレンス最終日 7/31 朝の礼拝

Karuizawa Union Church 修養会の3日目です。

講師は同じ Lou Diaz 博士。説教の聖句はヤコブ3章13節から18節からでした。

人のことをうらやましいと思う心(嫉妬、ねたみ)は最も悪い思いであり、恩寵や神の知恵とは全く反対です。その兆候を見たら手術が必要です。

伝道についても同じことが言えます。プライドをもち傲慢になっていると教会も宣教チームも分裂してしまいます。

パウロは第1コリント1章で、利己的な志を持って、パウロにつく人や、アポロにつく人で教会が分かれてしまっていたことを指摘しています。わたしたちはキリストのメンバーであることを思い出してください。。

イエスは分裂を望んでおられるでしょうか。全てのメンバーはひとつのからだなのです。

紛争の根は権勢、権力、信用、自由、富、お金、安全などです。これらを求めることにより争いが生じるのです。自分の利益を求めないで他人の利益に注目すること。この世の支配者は上に立つことを好みますが、わたしたちは下にいて仕える姿勢を忘れないようにしましょう。

最後に「争いを解決し、兄弟関係を成長させる平和の約束」と題されたペーパーが配布され、宣教師のみんなで声を出して読みました。ヤコブ3:17~18をもとにしています。

1.清さ
わたしは苦い実を結ぶ嫉妬と利己的な野心から自由になることに努めます。
2.平和(暖かい愛)
わたしは低レベルの争いから解放されることに努めます。
3.寛容
わたしは他人の視点からものを見ることに努めます。
4.温順
わたしはチームの競技者のひとりとして自覚を持つよう努めます。
5.あわれみと良い実とに満ちる
わたしは人を赦し、悪に対して善をもって返しことに努めます。
6.かたより見ない
わたしは公平を旨とし、偏見に捕らわれないように努めます。
7.偽りがない(誠実)
わたしは正直と真実に生きるよう努めます。

目標(18節):
わたしのゴールはイエスのようになることです。だからわたしはそれら「平和の約束/原則」の種をまきます。そうすることによってわたしは兄弟姉妹の関係において主の義の実を収穫するでしょう。

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2007年7月30日 (月)

軽井沢修養会 7/30 朝の礼拝

Karuizawa Union Church 修養会の2日目です。講師は同じ Lou Diaz 博士。説教の聖句は列王上19章からでした。

エリヤはバアルの預言者と華々しい戦いをした後、イゼベルのひと言で恐ろしくなって身を隠します。このようなことはわたしたちの宣教にもよくあることです。宣教の目的を失ってしまう。希望がなくなり、続けていく意思が失われてしまう。燃え尽き症候群のようなものです。「主よ、もはや、じゅうぶんです。」このようなエリヤのつぶやきを発することがあります。

ルカ10章の後半にはマルタとマリヤが対照的に記載されています。マルタは一生懸命主のために奉仕しているのにマリヤは何もしないで座って主の話を聞いているだけでした。このような中でマルタは自分からは言わないで主からマリヤに言ってもらおうとします。

わたしたちは忙しく奉仕することで主を礼拝していると誤解してしまうことがあります。モーセがホレブ山で40日不在にしていたとき、アロンが金の子牛をつくって「これがわたしたちをエジプトの地から連れ出した神だ」と言って人々に礼拝させたことが記載されています。この金の子牛は「忙しく奉仕すること」の象徴でもあります。

恐れ(fear)は、False Educate Appear Real(誤りの教理は真実に近い)の頭文字だと言われます。「忙しく奉仕すること」もその一つです。

大事なのはマリヤのように座って聞くだけでもマルタのように奉仕するだけでもありません。わたしたちは「座って聞き、奉仕すること」(service combined sitting)によって健全な信仰を持つことができるのです。

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2007年7月29日 (日)

軽井沢修養会 7/29 日曜礼拝

今日の礼拝は軽井沢ユニオンチャーチで守りました。

祈りと賛美の後、メッセージの時がもたれました。これから3日間の講師の先生は、イリノイ州の Evangelical Free Church から来られた Lou Diaz 博士。説教の聖句はマタイ14章からでした。

誰でも最悪と思える日はあります。何をやっても空回り。聖書はそのような嵐の日を否定をしないし、無視もしない。マタイ14章に書いてある記事もそのような時でした。

弟子たちはイエスの命令に従って、海に出たのに、波に悩まされていた。そのように突然人生の嵐は来る。

嵐が来ることによって、信徒は矯正され、人格が磨かれ、従う心を養うことができる。

イエスが海を歩いて弟子たちに現れたのは午前4時頃と書いてあります。これは最も暗い時間です。

イエスを幽霊だと思って恐れたとあります。弟子たちがキリストに焦点を合わせないで見たとき、恐れたのです。

イエスはペテロに対して、海を歩いて来るよう命じられたように思われるかも知れませんが、ここには、単に「おいでなさい」とあり、「ペテロよ、おいでなさい」とはありません。イエスは全ての人に舟から出て「おいでなさい」と語りかけられたのです。

あなたの舟は何でしょう。あなたには社会的信用があるかも知れません。いい職業があるかも知れません。また安全と保護が与えられているかも知れません。イエスはそれらの舟から「おいでなさい」と誘われているのです。

ペテロが舟から出たとき、「おい、ちょっと待て!」「気が狂ったか?」「馬鹿なことは止めておけ」このような反応をされたかも知れません。

キリストから眼をそらしてはいけません。嵐はあるでしょう。しかし大事なことは、その嵐の中にイエスは共におられるということです。イエスは嵐をも支配しておられることを忘れないようにしましょう。

イエスはわたしたちに挑戦することを求めておられます。舟から出ることは用意ではありません。しかしそれを求めておられるのです。このような内容でした~

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