婦人会

2009年7月 9日 (木)

苦しみによって練られる信仰~7/9 婦人会

豊田バプテスト教会(豊田市広美町上之切3-5 電話0565-21-1087)聖書学び会に出席しました。

メッセージは高野亜紀子伝道師。テーマは苦しみによって練られる信仰。聖句は申命記2章26~37節

あなたがたは立ちあがり、進んでアルノン川を渡りなさい。わたしはヘシボンの王アモリびとシホンとその国とを、おまえの手に渡した。それを征服し始めよ。彼と争って戦え。(申命記2:24)

占領し始めよ。戦え」これが神さまの命令でした。しかし、モーセは「和平を申し込んだ」(26節)のです。

しかし、ヘシュボンの王の心を主は頑なにさせました(30節)

聖書に、主が相手の心を頑なにされることはしばしばでてきます。エジプトのパロやサウル王などがそうです。しかし、神さまの方法をとらせるためわたしたちにとって非常に重要な過程であることを忘れてはなりません。

わたしたちは結果よければ・・・と思ってしまいます。ヘシュボンと戦って占領しなさいとの命令に、なるべく戦いをさけ自分の身を守り戦うことを躊躇していることはないでしょうか。

イスラエル人がカナン(約束の地)に入るとは、今のわたしたちに当てはめれば天国に入ることに例えられています。エジプト脱出から40年間の荒野をさまよったイスラエル人。そしてもう少しでカナンの地を目前としている。このことから救いに預かった時から、天国に入るまでわたしたちはさまざまな訓練が必要なのです。

なぜか?自分たちが自分の救いだけで自己満足をしないため、自分本位の信仰に陥らないため、高ぶらないため、人に慰めを与えられるように・・・イエスさまの似姿へと変えられるために必要な過程なのです。

あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。(申命記8:17)

これは人間が祝福にあずかったときに陥りやすい状態です。伝道をしている。私は主に従っている。しかし形を重要視して自己満足に陥っていないだろうか。わたしたちのほうから神さまに捧げるのが信仰ではありません。いつも神さまから与えられているものであることに感謝することです。

アブラハムはロトよりも苦しみました。ダビデ王はサウル王より苦しみました。どちらが神様の祝福に預かったでしょうか?わたしたちは生活の中で「なぜこのようなことが起こるのだろうか?」と思うことに遭遇します。ヘシュボンの王の心を頑なにされたこともそうです。自分の方法で計算し、自分の方法もとりながら主に信頼してしまいがちなわたしたちです。

しかし、神様はわたしたちが人間的な可能性に絶望して、神様の方法に完全に寄り頼むように導くのです。苦難や訓練はわたしたちにとってよい状況を与えられるのです。それは肉体的なトゲかもしれません。外からの攻撃かもしれません。時には同じ兄弟姉妹からの攻撃かもしれません。とくに内側からの攻撃は失望、落胆も大きいものです。

しかし、どんな状況に陥ってもわたしたちには主がついておられる。主がその状況を与え、わたしたちがより主にすがるように変えられるのです。主はあなたの信仰の過程を見ておられます。どんな時にも失望せずに証ししていくことがわたしたちの使命であり、伝道なのです。

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。(詩篇119:71)

このような内容でした~

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2009年4月 9日 (木)

弱い者をになう~4/9婦人会

今日は豊田バプテスト教会(豊田市広美町上之切3-5 電話0565-21-1087)婦人会に参加しました。高野亜紀子伝道師がメッセージを取り次がれました。聖句はロマ書15章から。テーマは弱い者をになうでした。

わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。(ロマ15:1~2)

ローマの12章からは、信仰者の心得が記されています。社会における立場、教会内に対しての態度・・・ここで共通して言えるのは、1つの心になる。同じ思いを持つことです。それではどうすればよいか?

互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。(ロマ12:16)

「自己中心の思いを捨てる」ということです。わたしたちは、どうしても自分を基準に人を見てしまいがちです。もし自分に能力があれば能力のない人を見て馬鹿にし、批判をしてしまうのが人間です。しかし、神さまから見ればどちらが優れているとか劣っているというものはありません。力ある人(強い者)とは、それだけ主から責任を課せられている人のことです。そういう人は強くない人を背負って運びなさい、ということです。

自分を喜ばせる、とは自慢したり自己満足になっている状態です。隣り人の益になるということは、その人が信仰を回復する、神さまとの関係を取り戻す・・・神さまにある平安を得ることです。わたしたち御言葉を学んでいる者が互いの信仰の回復のために励ましをしていくことが一致につながるのではないでしょうか。

キリスト教の過去の歴史をみると、外からの迫害も多いですが内戦が多いのに気付かせられます。内側から壊れているのです。戦うべき相手を間違っていると思いませんか?

教会内でも兄弟姉妹と争って何になりますか?競争し合ったり、比べ合ったり、愚かであることが分かるはずです。わたしたちは体の器官に例えられていますが、それぞれの器官が勝手なことをしたらどうなりますか?心臓だけが強く動きすぎると高血圧になり、何かが過剰に動くと病気になるのと同じです。教会全体が霊的な病気となるのです。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わずかえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリ2:6~8)

ピリピ2章は一致に対して有名な箇所です。一致で一番大切なものは「イエスさまが主である!」ということです。これを忘れたとき、自分自身が主となり争いがおきるのです。わたしたちはイエスさまを見習って互いに仕えていくことが大切です。

そして、積極的に兄弟姉妹と交わりをすることです。兄弟姉妹と接していくとき、愛することの難しさをわたしたちは知ります。自分を殺して忍耐していく難しさを体験するのです。そのときわたしたちは学び、悔い改め、イエスさまが罪人のために自らを低くして仕えられ十字架で犠牲となったことがどんなに大きな愛であるかを知るのです。

自分が愚かな者であること、涙をもって神さまの愛を受けいれるとき感謝があふれ、人と比較することなど問題にならなくなるのです。

心をひとつにして主を褒め称えましょう。

このような内容でした~

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2009年4月 2日 (木)

互いを受け入れあう~4/2婦人会

今日は豊田バプテスト教会(豊田市広美町上之切3-5 電話0565-21-1087)婦人会に参加しました。高野亜紀子伝道師がメッセージを取り次がれました。テーマは互いに受けいれあうでした。

信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない(ロマ14:1)

当時、ローマ社会では偶像にささげた肉が肉屋に卸され売られることがありました。クリスチャンの間ではその肉を食べることは偶像を礼拝することと同じであるという意見と、そんなもの関係ないという意見が分かれていました。

しかし、ここでポイントになることは他人を批判してはいけないということです。現在さまざまな環境を通してわたしたちはクリスチャンとなりました。その背景は千差万別です。

聖書に記されていない、細かな個々人の習慣を他人が介入すべきではないということです。奉仕をするしない、あの人は信仰があるない、祈祷会に参加するのは信仰のあるひとだけだ・・・批判の例をあげればきりがありません。

他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。(ロマ14:4)

しかし、神さまからみて何が大切でしょうか?他人を批判する前に自分を吟味することが大事です。批判をしているとき「あなたはどうなのか?」いつも主から問われていることではないでしょうか。

それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。(ロマ14:13)

人間は所詮、有限の世界に生きている生き物です。わたしたちは人の責任も、自分の責任もない主のしもべにすぎないのです。人間が本当の正解をだすことはできないのです。そうであるならば、結果的に互いを受けいれる必要があるのです。

わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである・・・・それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。(ロマ14:8~10)

わたしたちキリスト者は、自己本位の生き方から解放されたのではないですか。イエスさまがどういう生き方を喜ばれるかをわたしたちは常日頃、選択しているならば、愛ある行動で兄弟姉妹を労り、受けいれ合うことを選ぶべきではないでしょうか。

愛のない行動は他人を傷つけます。そして、最悪の場合にはその人が立ち上がれなくなり滅びの道へ導く可能性もあるのです。

それぞれの信仰には量りがあります。時には忍耐も必要ですがそのことを十分認識しわたしたちは互いを励ます必要があるのです。

こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。(ロマ14:19)

わたしたちは常に自分を吟味し、お互い受けいれ合う教会として成長していきましょう。

このような内容でした~

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2007年11月14日 (水)

一番の宝物~11/14水曜日クラス

主任宣教師よりメッセージ                                     ルカ18章より

あなたのすることがまだ1つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(ルカ18:22)

マルコ10:21の箇所では「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた~」と書かれています。イエスさまはこの世の富よりももっとすばらしいものを彼に与えたい。そういう思いで語られています。もちろん、この世で貧乏になり、みじめになりなさいと言っているわけではありません。お金も祝福のうちです。ここでは何を第一とするかです。

信じた者の群れは、心を1つにし思いを1つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。(使徒行伝4:32)

私達は神さまから養われてこの世にいます。お金も神さまからの祝福です。そうであるならば私達は神さまを第一にすることです。私達がこの世で生きている時間は一瞬にすぎません。しかし、体が死んだ後に永遠の生命が与えられるという保証があります。そのときにお金を持っていくことはできません。でも神様を第一とする生涯を送った人の魂は持っていくことができます。

心が貧乏(不安や恐怖など)で目くらになっている彼に祝福のチャンスを与えたけれども、結局彼は損をしました。天の宝を失ってしまった、地上での宝も失ってしまったのです。私達も何が大切か目を開きましょう。このような内容でした。

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2007年10月24日 (水)

1人で神に近づく~10/24水曜日クラス

ローマ12章より。メッセージは主任宣教師より。

ローマ人への手紙はパウロの書簡の中で一番長いものと言われています。律法によって救われるのではなく信仰によって義とされることを主張しています。プロテスタントを生んだルターもこのローマ人への手紙で救われ、神の恵みによって救われることを悟ったそうです。

神の憐れみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
(ローマ12:1)

わたしたちは生活を神様にささげるところからはじまります。自分の努力でいい人になろうとしても失望するだけです。疲れてしまうのです。神様のやりかたでなければ失望に終わるだけです。

この世にいる限りいろんな声が聞こえてきます。ブランド物を集めたり、美味しいものをたべたり、旅行をしたり、楽しいことがたくさんありますが、永遠に楽しいことでしょうか?その場限りです。私達の喜びはこの世からでたものではないのです。

たとえば両親が今はキャンディを食べてはいけないというのに似ています。それは喜びを取りあげているのではなくもっと身につく栄養のあるものを食べさせたいのです。私達は神の国と神の義とを第一にしましょう。このような内容でした。

その後、Sr.Kawaideさんのお宅で家庭集会をもちました。メッセージはNakata伝道師。
出エジプト24章より。

ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。(出エジプト24:2)

ここでモーセは1人で山に登るよう主から要求されています。私達は、集団が好きです。みんなが集まっていれば安心だ、みんないれば怖くない。しかし、ひとりになったとき、主のすばらしい栄光を見ることができるのは聖書のいろんな箇所にでてきます。

アブラハムがイサクを捧げたとき、ヤコブが荒野に野宿していたとき、ヨセフが牢屋に入っていたときなどなどです。私達も1人になって主に近づく者となりましょう。ここでヤコブがももつがいを打たれた箇所をとりあげます。

ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのももつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組み打ちするあいだにはずれた。(創世記32:25)

その人とは誰でしょうか?旧約聖書にでてくるイエスさまです。その人がヤコブに勝てないとはどういう意味なのでしょうか?

主たる方が勝てないという言葉を使うとは矛盾していると思われるかも知れません。ヤコブは名の通り「横取りする者、退ける者・・」強情な人でした。エサウの長子の権も騙してうばったほどです。人間は自由意思をもっているのでここで自己中心的で強情になっている人は神様は入り込めないのです。それで勝てないと書いています。

しかし、ヤコブを祝福するために大切なももつがいを打ち、分からせようとしているのです。私達も思い通りにならない時がありますがそんなときこそ100%主の祝福があることを忘れてはいけません。それで学ぶのです。訓練され、制御されたものが主の栄光を見ることができます。1人で戦うとき平安でいましょう。

このような内容でした。その後、お祈り会をしました。

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2007年10月17日 (水)

伝道の模範~10/17水曜日クラス

今日はヨハネ第4章より。主任宣教師よりメッセージ。

ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に「水を飲ませてください」と言われた。(ヨハネ4:7)

当時、9節にもあるようにユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していた。ユダヤからガリラヤへ出かけるのもあえてサマリヤを避けて遠回りしたほどである。そのサマリヤ人に、しかも身分が低いと思われる女性に声をかけるというのは驚くべき事であった。ここで伝道の姿勢を学ぶことができる。

もし私が神だったらわざわざ御子を汚れた地上で死なせるなど考えない。一瞬にして神のみ業を現してさあ信ぜよ。それが簡単です。しかし、神様はあえて低い身分でこの世にこられ仕える姿をお示しになっています。

「あなたは5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉の通りである」。(ヨハネ4:18)

ここでイエス様は、この女が卑しい者であることもお見通しであった。しかしここで注意深く読んでいただきたいのは、イエスさまはこの卑しいことについて否定をされていなかった。むしろその女を気に掛けていることです。ここで主の憐れみ、愛を感じます。そして、その人にとって必要な御言葉、心に突き刺さるような預言的言葉は主のみ業により頼まなければできることではないこともわかります。

わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである。(ヨハネ4:38)

自分が伝道の種を蒔いても、自分が刈りとるとは限らない。しかし、蒔いた人も刈りとる人も重要であり、主が働いておられます。私達はイエス様が私達の卑しいところを覆い隠してくださったように私達も他人の欠点や卑しいものを覆い隠すほどの愛で仕え、主の霊により頼んで、イエスさまの似姿に近づきたいものです。今このときに励んでいきましょう。このような内容でした。

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2007年10月10日 (水)

主に立ち帰れ! 10/10 水曜日クラス

今日から婦人会が水曜日クラスとなりました。婦人だけではなく誰でも参加が可能になって新装オープンです。

遠く東山タワーが見える眺めのなかメッセージを聞きました。メッセージは主任宣教師から、聖句はイザヤ書55章でした。

あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。(イザヤ55:6)

イザヤ書は旧約聖書の福音書とも呼ばれるほど神さまの憐れみを感じさせられる書です。イザヤは西暦前700年前後に活躍した預言者でした。その頃、北イスラエルは当時のスーパーパワーであるアッスリアに滅ぼされてしまいました。南のユダ王国のこの強国の脅威にさらされます。このような先の見えない政情不安定な世界の中でイザヤは主の臨在を語ったのです。

耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば生きることができる(3節)

この世での富があっても神様の言葉に従わないなら本当の生きるとはいえない。わたしたちはこの地上で労苦し、お金をためても何の役に立つでしょうか?その場限りです。来るべき世に神さまから義とされるためにわたしたちは、主の言葉に耳を傾けて従うことです。主に聞き従うことにより、ボロボロになった土地(心)も茨からモミの木やミルトスが生えるのです。茨は農作物もできない役に立たないものですがモミの木は役に立ちます(豊かになる、潤うこと)。神さまを第一に歩んでいきましょう。

このような内容でした~

その後、Sr. Yamada さんのところで家庭集会とお祈り会をしました。お祈り会をメインにして Nakata 伝道師よりショートメッセージ。

権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4:6)

ゼカリヤがみた幻の中でオリーブの木2本と金の燭台がでてきます。ここで大事なのは、オリーブの木から管がでて燭台につながり自動的に油が注がれていることです。燭台の火が燃え続けるためには油が必要なのです。燭台だけでは火はつかず役に立たないものとなります。わたしたちは自分たちの力では何もすることができません。上からの油(神の霊)によらなければ何一つできないのです。

今わたしたちに必要なのは管をつまらせないように謙り、謙虚に主の言葉に聞き従うことです。このような内容でした~

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2007年9月12日 (水)

信仰の成熟を目指す~9/12婦人会

婦人会。メッセージはNakata伝道師。ヘブル5:11~6:1

そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教えの初歩をあとにして、完成をめざして進もうではないか(ヘブル6:1)

キリストの教えの初歩とはひと言で言うと、教理にしがみつくことである。律法にしばられているような状態である。「~しなければならない」といつも心に平安がない。それは信仰の心理にふれられていないのである。乳を飲んでいる幼子は、善悪を見分ける感覚がない。親が教育していかなければいけない。しかし、堅い食べ物を食べる成人は善悪を見分ける感覚があり訓練されている。

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。(ガラテヤ3:24:25)

ここで私達はそれぞれ信仰の成熟を目指すべきである。それは信仰の勝利を体験し、いつも喜び、光を放って証し人となっていくのです。このような内容でした。

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2007年9月 5日 (水)

一方的な愛~9/5婦人会

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」。(ヨハネ14:1)

信仰とは信頼すること、神さまを恐れることです。箴言14:26に「主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る」。とあります。ここで神様の愛を知ることができます。イエスさまは私達を愛しているが故に十字架にかかり、私達の罪を許して下さいました。私達が立派だからではありません。ただこの地上に私達が生かされているのは意味があり、どんな境遇にあってもただ神様の一方的なご愛なのです。その愛を受けとめて従っていくことにより安心を得て、この世での恐れも恐れではなくなるのです。私達はただ神様の愛を受けとめ信頼していきましょう。このような内容でした。

その後、Yamada姉妹宅で家庭集会があり参加しました。今日は時間がなかったので、お昼のご馳走をいただき、祈祷会をしました。

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2007年8月22日 (水)

神の知恵~8/22 婦人会

今日は、関西聖書学院2年生の Br. Shoji さんがメッセージをされました。

メッセージ箇所は1コリント1:18~25。

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。(1コリント1:18)

神の知恵とは自ら謙って神に従うこと、人の知恵は自分の力で何とかしようとするということです。すでに滅びて当然のわたしたちを一方的な神さまのご愛により御子イエスキリストを十字架にかけられました。わたしたちはそれを信じ、従っています。しかし、信じることすらも神からの賜物であるならば高慢になることはもってのほかです。神さまの恵みに安住して高ぶるのではなく、常に自らの救いを喜び謙遜になって主に従っていくことが大切です。このような内容でした。

今日の Sr. Yanada さん宅でのセルは、みんなで最近公開された映画"黙示録-ヨハネの最後-”を観ました。すべてを映像化するのは難しいでしょう。この世の終わりは神さまのみしかわかりません。。。比喩的な表現で理解に苦しみますが、ただ過去も含め着実に成就されているのは確かでしょう~ (^^)/

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