« 礼拝するべき場所とはどこか | トップページ | モーセ誕生! »

2012年6月 3日 (日)

聖書の目的は何か

今日のテーマは聖書の目的は何かです。

1.聖書の記者

まず聖書はいったい誰が書いたのかな?答えは人です。聖書は66冊からなっていますが、書いたのも編集したのも人です。これには争いがありません。

しかしクリスチャンがそうでない人と違うのは、同時に神様が特別な目的、つまりすべての人へのラブレターとして書かれたと考えていることです。別の言い方をすれば、神様がある人たちに導きを与えて書かせられたと考えることです。

わたしたちの人生は自分ですべて決定して生きていると考えることはとても恐ろしいわなだと思います。自分が誰の子として生まれ、容貌とか健康状態を含めてどのような遺伝子をもってこの世に現れたかを考えてみれば分かるでしょう。わたしたちの決定できることなど実は生まれたときから限定されているのです。

聖書も同じように神様の激しい導きによって特定の人が経験させられたことがありのままに記載されているとクリスチャンは考えているのです。
神様の愛をすべての人に伝えるためという特別な目的の中で、選ばれた人たちの行動と思いを袋小路へ導いていかれ、書かれたのです。

2.聖書の内容

では、聖書にはいったい何が書いてあるのでしょうか。

聖書は、わたしについて証しをするものである。(ヨハネによる福音書5章39節)

イエスによるみ言葉です。聖書は人の眼で見ると多種多様でまとまりのないことが書かれています。ある人は聖書は事件が書かれていると言いました。アダムが禁断の木の実を食べ楽園から追放された。カインがアベルを殺害した。アブラハムが甥のロトを救出するために軍隊を送った。ヨセフがある日夢を見た。モーセが燃える柴の中から聞こえる声にひれ伏した等々。

このようなひとつひとつの事件の中に実はイエス様が見える。聖書のどこを開いてもそれはイエスについての記述がある、そのようにイエスは言われたのです。

3.聖書が対象とする読者

また、聖書はいったい誰に対して書かれているのでしょうか。すべての人に対してでしょうか。確かにそうですが、それだけでは聖書の価値が薄まってしまうと思います。わたしは自分自身の経験から聖書は具体的に血を内に携えて生きているわたしたちひとりひとりに対して書かれていると思います。抽象的な「あなたがた」や「全人類」でなく、「あなた」に向けて書かれているのです。

「7つのパンを4000人に分けたときには、パンくずをいくつのかごに拾いあつめたか」。「7かごです」とこたえた。そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。(マルコによる福音書8章20~21節)

ある日、イエスの弟子たちはお弁当を忘れてしまいました。イエスが「パン種」を比喩として語られたとき、お弁当を忘れたことを言われたと誤解してしまいました。

イエスは過去に起きた事件を語り始めました。7つの小さなパンを4000人に分けたとき、皆が満腹になった上にパンくずを集めたら最初のパンよりも多くなっていた。イエスが弟子たちにおっしゃりたかったことは、お弁当を忘れても問題ないことを伝えたかったのです。それでも分からない弟子たちに向かって、イエスは「まだ悟らないのか」と言われたのです。

20120603hわたしたちも聖書の中に驚くべき奇跡をたくさん読んでいます。過去の事件が書いてあると思ったら、それはあの時の弟子たちを変わりません。イエスがわたしたちに今も語っておられるのは、「まだ悟らないのか」だと思います。聖書には過去の事件が書いてあるだけではなく、その事件が今現在苦しみや悩みに会っているわたしたちにそのまま適用されるものであることを悟れと言われているように思えて仕方ないのです。

これは確かに賭けです。しかし、イエス様は「わたしに賭けてみよ」と挑戦されているように思えて仕方ありません。

4.聖書の読み方

次に聖書の読み方について話をしましょう。

20120603s聖書は研究したり、記憶するものではありません。もちろんひとつひとつの言葉の意味を原語から追求することや一字一句を記憶することが悪いといっているのではありません。神様の言葉を心にとめることは大事なことです。しかしそれが目的となってしまっては意味がないといっているのです。

この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。(エゼキエル書3章1節)

聖書には時々、「聖書を食べる」と表現しています。それは神様の言葉を自分の体に取り入れよ、自分の血とせよ、肉とせよと言われているのです。

20120603mこの朝、みんなは朝食を食べてきましたか。「いや、昨日食べたから今日は食べない」というお友だちはいるかな。いないと思います。食事は毎日毎日体に取り入れます。同じように神様の言葉も毎日毎日取り入れることが大事なのです。それによってみんなの心が成長するのです。

5.専用の眼鏡

20120603gみんなはこの前の金環日食を見ましたか。見た人は何を使ってみましたか。サングラス?黒色の下敷き?そんなお友だちはいないと思います。このようなもので観察すると目を悪くしてしまうからです。遮光グラスという専用の眼鏡で見たと思います。

同じように聖書も専用の眼鏡を掛けて読まないと意味が分からなくなってしまうばかりか、破滅してしまうことがあります。

聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことができない。(1コリント12:3)

その専用の眼鏡・・・それは聖霊です。聖霊を介さないで聖書を読むと自分勝手な解釈になってしまって、最悪の場合、神様の敵になってしまうことがあります。その最たる例がサタン、悪魔です。彼ほど聖書に熟知しているものはないのです。

では聖霊とはいったいなんでしょうか。それは神様の心です。これは人が努力して与えられるものではなく、神様の選びによって一方的に与えられるものです。神様の心が与えられる人、神様の心に満たされる人、それが神様の特別養子とされた人、クリスチャンなのです。

|

« 礼拝するべき場所とはどこか | トップページ | モーセ誕生! »

子供メッセージ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/437863/45544949

この記事へのトラックバック一覧です: 聖書の目的は何か:

« 礼拝するべき場所とはどこか | トップページ | モーセ誕生! »