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2009年6月

2009年6月30日 (火)

救いの確信~6/30祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に参加しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは救いの確信。聖句はロマ8章から。

ロマ書は3つに分かれます。1~8章、9~11章、12~16章。1つめは救いの教理について、2つめはイスラエルについて、3つめは実践的な事柄です。

今日読んだ8章の終わりは、聖化、栄化のまとめであると同時に、8章までの総まとめの箇所でもあります。

ロマにいるクリスチャンに対して救いを是非確信して欲しいと熱心さが伝わってきます。

今日は何故クリスチャンは救いを確信できるのかについて、3つに分けてお話しします。

1つめ。神さまがわたしたちの味方だからです。

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(ロマ8:31)

ここでつかわれている「もし」は、仮定法でなく、「神がわたしたちの味方なのだから」という意味です。ここは直訳すると「神がわたしたちのために(おられる)」となります。

今この世は確かに悪魔も悪霊も働いています。しかしそれらは最終的にわたしたちには勝利できません。なぜなら神さまがわたしたちの味方だからです。それは迫害や災いが起こらないという意味ではありません。永遠の命へ間違いなく導いてくださるということです。そのことについては、悪魔は介入できないということです。

ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(ロマ8:32)

わたしたちは生まれながらにして神さまから背を向けて歩んでいた者でした。そのわたしたちに一方的な恵みによって御子イエスを与えてくださいました。それは単にこの世に来ていただいたというだけでなく、十字架上でご自分の命を犠牲にされたのです。

それはわたしたちの聖化のため栄化のため必要なもの全てを備えてくださったのです。

2つめ。キリストがわたしたちのために執り成しをしてくださるからです。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(ロマ8:33~34)

悪魔は神さまの前に人を告発し訴える者です。罪に定めようと常に機会を狙っています。これに対して、キリストはご自分の義の衣を信徒に着せることによって悪魔からの訴えに対してわたしたちを弁護してくださいます。

わたしたちは救われてなお罪に対する弱さを持っています。ひとりで悪魔に立ち向かうならば太刀打ちはできません。イエスさまはわたしたちの過去の罪、現在の罪、そして未来の罪に対して、すべての時に対して貴い血を流してくださいました。

わたしたちはその十字架の血によって悪魔から無罪判決を与えられるのです。

3つめ。神さまの愛からわたしたちを引き離すものは何もないからです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。(ロマ8:35)

世の宗教は信じるならば何らかのご利益があるといいます。クリスチャンは天国への道は保証されていますが、苦しみがあり、試練があることが予告されています。

信仰生活を続けていると、祈っても祈っても願い通りにならない、災いがひどくなったりすることがあります。廻りの兄弟姉妹が喜んで礼拝に出席しているのを見ると辛いものです。自分だけ神様に愛されていないのではないだろうかと疑問がわいてきます。

それは、自分の体験、感覚、感情によって主を知ろうとするからです。しかしわたしたちはそうあってはいけません。

「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。(ロマ8:36)

「ほふられる羊のように」とは日本語で「まな板の鯉」という慣用句がありますが、それに相当すると思います。それは非常な苦難の様子です。使徒たちの状況を表したものでしょう。

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(ロマ8:37)

このような中にあってもパウロは「クリスチャンは圧倒的な勝利者だ」と宣言することができました。それは状況によってぶれない信仰です。たとえ状況が悪くなっても変わらないのです。

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ロマ8:38~39)

わたしたちはひとりひとり大変な経験をされています。兄弟姉妹の話を聞くとびっくりするほどのご苦労をされています。しかしわたしたちの回りにある荒波をどのように感じようが、回りで何が起きようがひとつだけ変わらないことがあります。

それは神がわたしたちを愛しておられるということです。そこに救いの確信があるのです。その真理を知ったとき、初めて大丈夫だといえるのです。

わたしは子どもの頃救われました。そして永遠の命を手にしました。しかしその後、道を外れて、神さまを悲しませたこともあります。それによって祝福は奪われました。しかし永遠の命だけは守ってくださいました。

神さまはそれぞれの兄弟姉妹に救いのご計画を持っておられます。一人ひとりに実現させてくださることを知り、ただひれ伏すのみです。この罪深い者までも愛してくださった主に一生喜んで仕えて歩む者とされたいです。

このような内容でした~

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2009年6月28日 (日)

主に不可能なことがあろうか~6/28日曜礼拝

今日は日曜礼拝。幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)にて礼拝を守りました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは主に不可能なことがあろうか。聖句は創世記18章から。

アブラハムは75歳の時に「あなたを大いなる国民にする」との約束をいただいていました。しかし、それから1年が過ぎ、2年が過ぎ、20年が過ぎ、24年が過ぎました。何も状況は変わっていない。変わったのは彼らが年老いただけでした。

主の使いがアブラハムとサラのところに訪れ、ふたりの間に子ができると伝えたとき、サラは思わず笑った。「わたしにはできない。あり得ない」と。しかし主にはできないことはひとつもないのです。

今日は3つの点から主がどんなお方であるか学びましょう。

1つめ。主は必ず約束を守られるお方です。

主にとって不可能なことがありましょうか。・・そのときサラには男の子が生れているでしょう」。(創18:14)

神さまはサラを通して約束を実現させるとおっしゃっていました。にもかかわらずアブラハムたちは自分で何とかしなければいけないと考えました。そのため、女奴隷であるハガルを通してイシマエルを得ました。

しかし神さまは不可能に見えるサラを通して実現させることを望まれたのです。天地を創造され、ノアの時に洪水を来たらせ、人類の言語を混乱させた主。主は死んだ胎を通して、人間の眼にはできないことを約束されたのです。

過越の時を思い出してください。小羊の血を門柱と鴨居に塗れと命じられたとき、エジプト人は笑ったことでしょう。

マリアの受胎についても同じことです。多くの人は主のなされる御業を笑います。

しかしわたしたちは信仰を持って不可能なことでも可能になると信じるのです。

2つめ。主は時を支配なさるお方です。

来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。(創18:14)

来年の今頃、男の子が生まれるとおっしゃいました。その通りに実現しました。ユダ王国がバビロン捕囚になったとき、エレミヤを通して70年の時が定められました。そしてそのタイミングでユダは再び戻ってきました。

また定めの時が来て御子イエスは生まれられました。

そして主が再び来られるときも、父なる神のみが知っておられますが、時を定めておられます。

勘違いをしてはいけないのは、わたしたちが望むタイミングと神さまのタイミングとは異なるということです。主は最もよいときにその実現をしてくださるお方です。

ただし聖書の歴史を日本の歴史に適用したり、自分の未来予測にしたりするのは危険です。戦後70年経ったら、日本にリバイバルが起こるとか、ここに書いてあるように1年後にわたしたち夫婦にも子供が生まれるとか、それらは聖書の誤った適用といえるでしょう。

わたしたちは主の訪れを無理矢理予想するのではなく、いつ神さまが御業を行われてもいいように準備しておくことが大事なのです。

約束がいつ成就しても恥じない信仰生活を歩みたいものです。

3つめ。主は人の心を見られるお方です。

サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。(創18:15)

神さまはサラのことをよくご存じでした。サラは笑ったが主に指摘されて悔い改めたことでしょう。神さまは心の中もすべてご存じなのです。

イエスの母マリアはこれに対して「主のお言葉がなりますように」と応えました。

サラも最初は主の言葉を信じてウルの地を出たことでしょう。しかし時間が経つにつれて神さまの約束を笑うようになってしまったのです。

神さまは時を支配し、わたしたちの心をご覧になっておられます。神さまはすばらしい約束を与えてくださいます。イサクとは日本に訳せば「笑い」です。本当の喜びを与えてくださる主に感謝しましょう。

このような内容でした~

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2009年6月21日 (日)

父親のあり方~6/21日曜礼拝

20090621w 今日は日曜礼拝。蒲郡バプテスト教会(蒲郡市清田町小栗見1-99 電話0533-68-6259)にて礼拝を守りました。

メッセージは浅田朗主任牧師が取り次がれました。テーマは父親のあり方について。聖句は歴代志上3章から。

イスラエルで最も偉大な王としてあまりにも有名なダビデ王。今日は父の日でありますので、父親としてのダビデから3つのことを学びましょう。

1つめ。彼は神が与えた結婚の原則から離れた。

聖書で書かれていることは神さまがすべて良しとされていることではありません。ダビデが多くの妻を娶ったことも聖書の原則からすると好ましいことではありませんでした。

妻を多く持って心を、迷わしてはならない。(申17:17)

当時の結婚の多くは政略結婚でした。自国の領土を拡大するための結婚です。ダビデは多重結婚をすることを自国の安全保障の策のひとつとしたのです。

主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。(創2:22)

しかし神さまのもともとの計画はひとりの夫に対してひとりの妻です。

また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙21:2)

そしてそれは花婿と花嫁、夫と妻であるキリストと教会の関係に結実されていくのです。そこに、夫は妻を愛し、妻は夫に従うという模範を見ることができるのです。

2つめ。彼は父親としての愛情は強かった。

ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。(2サム12:17)

ダビデはバテシバとの姦淫によって生まれた子に対して熱心に祈った。

しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。(2サム13:37)

ダビデはその息子アブサロムが異母兄であるアムノンを殺害した後、エルサレムを出奔したことを痛く悲しみました。

王はひじょうに悲しみ、門の上のへやに上って泣いた。彼は行きながらこのように言った、「わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム、わが子よ、わが子よ」。(2サム18:33)

ダビデはその子アブサロムが自分を亡き者としようとして戦争を仕掛けるものの、遂には制圧されて殺害されるに至ったとき、「自分が逆に死ねばよかった」と嘆きました。

以上から伺えるのは、彼は非常に父としての愛情は深かったと言うことです。

3つめ。彼は父親としての自覚が足りなかった。

ダビデは使者に言った、「あなたはヨアブにこう言いなさい、『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」。(2サム11:25)

ダビデはこのようにして人妻との不倫を精算させるために、人妻の夫を殺害するという奇策を実行します。

その後、彼の人生の歯車は大きく狂ってきます。娘のタマルは義母兄であるアムノンに犯され、アムノンは異母弟であるアブサロムに殺害され、アブサロムは武力を持って父親ダビデを殺害し、国を自分のものにしようと企てます。

彼は子どもに対して甘い処罰しかできませんでした。彼は親として罪に対して厳しく接することがありませんでした。親は子を愛しているが故に懲らしめるべきです。それは子を成長させるためです。涙をもって戒めるのです。

さてダビデの欠点ばかりをあげつらいましたが、彼は人間的に見れば悪逆非道な者でしたが、神さまからは「主の心にかなう者」と深く信頼され、愛されています。

何故でしょうか。

それは、罪を指摘されたときに悔い改めたことです。彼は父親としてよき模範は示せませんでしたが悔い改めたのです。それを神は良しとされたのです。

もちろんそれでも罪の刈り取りはしました。

わたしたちも過ちの多い者ですが、罪を悔い改めて共に成長していきましょう。

このような内容でした~

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2009年6月16日 (火)

神さまによる予定~6/16祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは神さまによる予定。聖句はロマ8章から。

ロマ書8章では、信仰による義、将来の栄化の希望、御霊のとりなし等について、学んできました。

今日は神さまによる予定について、3つの点からお話しをしたいと思います。

1つめ。神さまは予知に基づいて予定された。

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。(ロマ8:29前)

神さまは予め天国へ行く者と地獄へ行く者を知っておられるとか、何をやっても救われる、救われないは定まっていると言われているのではありません。

そうではなく、神さまはわたしたちに与えられた選ぶ能力を予めご存じである、自由意思をどのようにつかうのかをご存じであるという意味です。

人間には自由意思があります。人は神のせいで滅びるのではなく、福音を拒むから滅びるのです。伝えられた者に伝えるべき責任があるのです。

2つめ。御子の栄光の御姿になると予定されています。

御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。(ロマ8:29後)

わたしたちはこの御子の御姿に変えられていきます。それは人間に新生が加わってくるということではなく、永遠の御国を引き継ぐものとしてそれに相応しいものとしていただくことです。

3つめ。救いの計画全体が予定されました。

そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。(ロマ8:30)

召し、義認、栄化、それら全体の計画を予め定められたということです。その計画は途中で挫折することはありません。主がすべてを計画され、そこに導かれるからです。

「栄光を与えて下さった」という言葉に注目しましょう。過去形になっています。それは将来に関することだけれども、栄化が既に定まっており、そこに必ず導かれるという神さまの決意として、完了形で示されているのです。

天国の栄化を目指して、清く正しい歩み続けていきたいものです。

このような内容でした~

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2009年6月14日 (日)

滅びからの救い~6/14聖日礼拝

今日は聖日礼拝の日。安城恵みキリスト教会(安城市横山町石ナ曽根171-2 電話0566-72-4885)にて礼拝を守りました。

メッセージは臨時の鈴木先生。テーマは滅びからの救い。聖句はヨハネ3章から。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハ3:16)

これは聖書の中でも最も重要な聖句のひとつです。神とは、人が造った神ではありません。人を造られた神です。

わたしたちは偶然で出来上がったのではありません。時計に必ず設計者がいるように、ましてそれよりも複雑な人に設計者がおられないことの方が不自然といえます。

義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。(ロマ3:10~11)

わたしたちはすべて無益なもの、神さまから見て罪あるものとされています。

一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている・・(ヘブ9:27)

わたしたちへの裁きは必ず行われます。それは天国か地獄へ振り分けられるものです。

このような内容でした~

礼拝後で、鈴木先生とお話しする機会が与えられましたが、意見は平行線に。

教義はかなり狭く、ファンダメンタリズム(キリスト教原理主義)の影響を色濃く感じました。とにかく地獄をテーマに話をするのが大好きな教会です。

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2009年6月 9日 (火)

神はすべてのことを働かせて益とする~6/9祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは神はすべてのことを働かせて益とする。聖句はロマ8章28節から。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ロマ8:28)

わたしたちはこの御言葉に直面したとき、確かに勇気づけられますが、同時に本当だろうかと疑念を持ちます。

4歳の子どもを白血病で失うこともあります。父親が3人の幼い子どもを残して交通事故で亡くなることもあります。未開の奥地で宣教に出かけた宣教師がひとりにも伝道せずに川で溺れて亡くなることもあります。

病、犯罪、事故、そのようなものにわたしたちはいつ遭遇するかわかりません。そのときに果たしてこの御言葉が本当だと言い得るでしょうか。

わたしたちは今日、この確信を持つ者でありたいと思います。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ(ヘブル11:37)

信仰の人の多くは悲惨な人生で終えました。それを「益」と言えるのでしょうか。わたしは「そうだ」と言い得る者になりたいと思います。

今日は3つのことをお話しします。

1つめ。神さまはわたしたちのために計画をお持ちだということです。

主はわたしたちひとりひとりに計画をお持ちです。それは義と認められ、聖とされ、栄光を受けさせられるという計画全体です。

わたしたちに起こるすべてのことは、神をより深く愛する者に成長させてくださるということです。神を永遠に愛する者へと成長させてくださいます。

神さまの計画は、愛する者を霊的に成長させてくださることです。内なる品性を清めてくださるのです。

主がわたしたちに計画しておられるのは、呪いの計画ではありません。祝福の計画なのです。

2つめ。主はすべてのことを支配しておられることです。

人生には実にさまざまなことがあります。順調なとき、逆境の時、期待通りに進むとき、期待はずれの時、心浮かれたとき、不幸のどん底の時。

主はそのように起こるすべてのことに働いておられるのです。主は実にすべてのことの主権者です。主の前には突発的なこと、偶然なことは何一つありません。

神さまが許可する範囲の中ですべてのことは起こっているのです。

誤解をしていけないのは、主は清く正しいお方ですから、罪を認めたり、悪を肯定されることはありません。

しかし悪や罪を用いることはされます。その最たるものが十字架なのです。

わたしたちは、自分たちの意思に反して事故、犯罪、病気に巻き込まれます。それらを歴史を支配しておられる主がすべてを許しておられると信じるならば、すべてのことを信仰によって受け取っていくことができるようになります。

3つめ。神さまはわたしたちの本当の益を知っておられます。

益とは自分の希望がすべて叶うことではありません。また不幸を経験しても最後はハッピーエンドの最期ということでもありません。信仰の先輩には神さまに従って苦しみの中に地上の生活を終えた人が大勢います。

益とはわたしたちの内にキリストのかたちが造られることです。キリストの品性、御霊の実が結ばれることです。

神さまはわたしたちがこの地上にいて天国というゴールに向かわせておられるのです。神さまにはひとつの無駄もありません。

動物園の虎が病気になったときにそれを治すにはどうしたらよいか。まずすべきことは虎が抵抗できないように麻酔銃で撃つことです。虎にとっては恐怖体験でしょうが、彼にとってそれが最も最善の道なのです。

わたしたちも不幸な出来事には会いたくありません。しかしそれがわたしたちにとって最善の道であるならば、御霊の実を結ばせるのであれば、どうでしょうか。

神さまはわたしたちが思う以上にわたしたちの益が何であるかをご存じなのです。今の不幸、災難を諦めるのでなく、自分にとって最善のものだとして受け取っていく。そのような信仰を持とうではありませんか。

このような内容でした~

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2009年6月 7日 (日)

主にあって謙遜に生きる~6/7日曜礼拝

今日は主日礼拝の日。礼拝は、日本キリスト教団 岡崎教会(岡崎市八幡町1-36 電話0564-21-7359)にて守りました。

メッセージは柳本秀良牧師が取り次がれました。聖句はマタイ23章から。テーマは主にあって謙遜に生きる

また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。(マタ23:4)

パリサイ人たちへの激しい非難で始まるこの御言葉の中で彼らとイエスさまの対比が現れています。イエスさまはわたしたちのくびきを負って下さるお方です。反対にパリサイ人たちは人に負わせようとします。

広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。(23:7)

先生と呼ばれる人には医者や弁護士、学校の先生、牧師も含まれます。イエスさまはそれらを先生と呼ばれるのを禁止するといわれたのではなく、人の人生を導く者としての扱いを受けることを、神さま以外が権威を持った者として扱われることを嫌われたのです。

按手礼を受けるときに先輩牧師から「牧師に権威があるのでなく、聖書に、イエスさまに、神に、権威があるのだ」と戒められたのを思い出します。

これらはパリサイ人たちへの非難ですが、彼らの「人によく思われたい」という心は、わたしたちも実は持っています。このパリサイ人と同じなのです。そしてイエスさまはそのような心の性質が罪であることを暴かれたのです。

そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(マタ23:11~12)

わたしたちは自分たちの評価が下がることを嫌います。人々の眼を気にしてしまう弱い者です。イエスさまはそのような弱い者に対して手本を示されました。それが十字架です。

この十字架の前にあっては自分を取り繕うことは全くの無駄です。天におられたイエスさま自身が低くなられてこの地上に来られたのですから、わたしたちはそれに見習って、人々による自分の評価が下がってもいつも主にあって喜んでいましょう。

このような内容でした~

20090607b 礼拝後、教会のグリーン・バザーのお手伝いをしました。大勢の方がお見えになっていました。

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2009年6月 2日 (火)

アブラハムとロトの分離~6/2祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマはアブラハムとロトの分離。聖句は創世記13章から。

アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。(創13:18)

アブラムは、ヘブロンで主の祭壇を築いたとあります。ここに至るまでに彼はさまざまな失敗を経験しなければいけませんでした。エジプトでは妻サラのことを妹と偽りパロに近づかせました。

今日は、主が最善を与えてくださると信じる者は何ができるのかについて、3つの点から学んでいきましょう。

1つめ。彼は平和を作ることができます。

アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。(創13:8)

アブラムは争いから逃げる道を選びました。各々の場所に行くことによりいざこざを回避したのです。彼は甥のロトによい地を選ばせることにより平和を保たせ、族長としての責任を果たしたのです。

祝福がもし限られたものであればそこには争いが起こるでしょう。東京の銀座で先着5000名に限り、0.5カラットのダイヤモンドを5000円で販売するという記事がありました。もしこの列に横入りをする人がいれば争いが起こることは必至です。数量が限られているからです。

しかし神さまからの祝福には限りがありません。わたしたちに必要なものを十分に与えてくださるのです。そうであるなら争う必要は全くありません。

主が最善を与えてくださると信じて平和をつくり出す者になりたいです。

2つめ。彼は豊かに与えることができます。

全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。(創13:9)

アブラムはロトとの財産分離で驚くべき方法をとります。彼の族長としての権利を使わずその権利を甥のロトに与えたのです。

彼は主が必ず与えてくださると信じていたからこそ、嫉妬する必要もなかったのです。彼は相手が遠慮すると思って譲ったのではありません。神さまが最善を与えてくださると信じていたから余裕があったのです。

彼は経験から、知恵や力によって祝福を得ようという考えを捨てるに至ったのです。相手に自由に選ばせるというのは信仰の業なのです。

3つめ。彼は神さまが見なさいということを見ることができます。

ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと(創13:10)

ロトは自分の肉の眼で見えるものを見て選びました。

ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。(創13:14)

逆にアブラムは信仰の眼によって見ました。そして主が命じられたものを見て従ったのです。

わたしたちにはロトに働いたと同じように働く罪の性質があります。眼に見えるものによって選ぶのでなく、神さまが選び取っていくものを選び、信仰によって物事を見たいものです。

このような内容でした~

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