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2007年12月30日 (日)

信仰による義を立てる~12/30日曜礼拝

今日は北九州に帰省して5日目で聖日礼拝の日。メッセージは福岡大濠公園教会(福岡県福岡市中央区鳥飼2丁目2-26)榎本和義先生から。テーマは「信仰による義を立てる」です。

聖句はピリピ3章1節から15節まで。

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(ピリピ3:12)

今年、地上では悲喜交々のいろんなことが起きました。わたしたちは1年を振り返って思ったようにいったか顧みて、思ったようにいかなかった時に自分を責めることもあります。わたしも中途半端なことしかできなかったという反省があります。

しかしこのような反省はクリスチャンとしてあまりほめられたものではありません。反省することの何がいけないのでしょうか。「わたしがいけないと思うこと」です。世間では反省することは立派かもしれませんが、神さまが求めておられることは反省ではないのです。

自分が頑張ればできるという思いがそこにあるから、反省して、自分を責めているのではないでしょうか。むしろ自分は何もできないことを認め、神さまからの一方的な憐れみによって、欠けだらけの自分が生かされていることを知ることが大事なのです。ゼロであった者が憐れみによって立たされている。そのことを悟ることを主は望んでおられるのです。

このような欠けだらけの自分に神さまはひとつひとつ神さまのわざをしてくださった。主は不完全な者を放っておかれる方ではないのです。

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。(3~4節)

ここでパウロは信仰告白としています。それは彼がイエスさまに出会って、自分を誇りとして、自分を義とする生き方がどれほどイエスさまを悲しませてきたか、どれほどお嫌いかを知ったのです。パウロはそのために自分の力では立てない状況に立たされました。全く自分の力では立ち上がれなくなるほどの惨めな境遇を経験しました。ことごとく彼のプライドは砕かれたのです。

ついにパウロはそのために「わたしは罪人のかしらです」と信仰告白をするにまで至ったのです。

わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、(8節)

人間の完成した姿とは何でしょう?それはイエスご自身となることです。パウロはこのことを「キリストを得る」と語っています。それは完全な者として神さまの再創造してくださるということです。さまざまな問題を通して自分自身が造りかえられていくのです。それによってわたしたちを完成させてくださる。これが神さまの恵みなのです。

律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。(9節)

自分の義でなく、信仰による義です。自分を見たとき絶望的になります。しかし古い自分が十字架上で砕かれて墓に葬られることによって希望が生まれるのです。自分もキリストと共に死んだ者になりきっていきたいものです。
キリストともに砕かれ、十字架に付けられ、主の死のさまに等しくなり、キリストの栄光の御姿に変えられていくのです。

わたしたちを手放さず、さまざまなことに干渉してくださっておられる。ついにはキリストの似姿にまで造りかえてくださるというのです。自分を見れば失望するだけです。

しかし神さまが自分を捕らえてくださっておられる。たとえどんな過去のしがらみがあっても、創造の主は造りかえてくださるのです。後ろのものを忘れ、前にある者を望み見て生きていきましょう。

このような内容でした~

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