2009年8月16日 (日)

多くの人々を生かした言葉~8/16日曜礼拝

今日は日曜礼拝の日。幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)で礼拝を守りました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは、多くの人を生かした言葉。聖句はマタイ11章から。

以下は週報からのメッセージの要約です。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタ11:28)

このイエス様のみことばは、時代や民族などを超えて、数え切れない人々の心に希望と平安と慰めを与えてきました。このみことばには人間の根本的問題に解決を与えるすばらしい約束かあるからです。

第一の約束は、イエス様は私たちを知っておられるというものです。

イエス様は全知全能の神様で、ひとりひとりのことを心の中までよく御存知です。私たちの人生の疲れや、罪の重荷の悩みも知っておられ、苦しむ私たちの心を理解し、同情してくださるのです。イエス様に忘れ去られた孤独な人はいません。

第二の約束は、イエス様は私たちを招いておられるというものです。

イエス様は万物の創造主であり私たちに命を与える神様ですが、私たち罪人を招くために人間になってくださいました。十字架で私たちの罪の身代わりに命を捨てるほど私たちを愛している救い主ご自身が招いてくださっているのです。

また、イエス様は、全ての人を、制限無く招いておられます。人間の招きにはどうしても限界や制限があります。しかしイエス様の招きは、時代や民族を越え、個人の力や人間的評価に関わらず、全ての人に及んでいるのです。今も全ての人はイエス様に応答するように呼びかけられています。

第三の約束は、イエス様は私たちを休ませてくださるというものです。

①イエス様はご自分を救い主と信じる者を罪から解放します。ご自分が十字架で私たちの罪の罰を身代わりに受けたので、信じる者の罪を赦し、魂に平安を与えることができるのです。

②また、イエス様は私たちを思い煩いから解放します。試練の中にある私たちに、折に適った必要なみことは与え、心を支えてくださいます。

③さらに、イエス様は死の恐怖から解放してくださいます。信じる者には永遠の命が与えられ、天国が約束されます。イエス様を信じて牧われた人は、天国の希望を確信できますから、死の恐怖に押しつぶされずに、平安を持てるのです。

20090816b 今日は先週の日曜日に生まれた今井先生ご夫妻の初子のお披露目がありました~♪

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2009年8月 9日 (日)

御霊に満たされなさい~8/9日曜礼拝

今日は日曜礼拝の日。幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)で礼拝を守りました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは、御霊に満たされなさい。聖句はエペソ書から。

洗礼を受けてクリスチャンになってから、主にある喜びを失い、信仰生活が嫌になる人があります。もったいない話です。

御霊に満たされることなしにわたしたちが信仰生活を続けることは難しいと言えます。今日はエペソ書から3つの点をお話しします。

第1は、聖霊に満たされることの意味。

酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて(エペ5:18)

これは空っぽになった聖霊を聖霊スタンドに行って満タンにするという意味ではありません。

既にわたしたちの内に住んでおられる聖霊さまに自分自身を支配させるということです。

中日の熱狂的なファンの人は四六時中、中日のことばかり考えています。それは中日に自分自身が支配されていることに他なりません。ほかにも酒、麻薬などにも自分の人生のアクセルもブレーキも支配されることがあります。

同じように聖霊に満たされるとは聖霊に自分の人生を支配していただくことなのです。

第2は、満たされるためにはどうしたらよいのか。

それは自分自身の内にある罪を捨てるということです。余分なものを取り除かなければよいものは入れません。

しかしそれは自分が何とかしようとするものではなく、神様に清めていただくのです。

また、それは本気で神さまに委ねようと決心することです。

またそれは御言葉に従うことです。わたしたちには誘惑があります。肉の弱さがあります。罪も日々犯します。しかしその都度悔い改め、清めていただくのです。

第3は、御霊に満たされるとどうなるのか。

詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。(エペ5:19)

賛美はカラオケとは違います。賛美はそれ自体礼拝であり、祈りもまた礼拝なのです。

キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。(エペ5:21)

クリスチャンは、聖霊によって、人のためになろうと変えられていき、良い人間関係を築いていくことができるのです。

未信者と信者の区別は、御霊に満たされているかどうかです。これによって世の光のなることができるのです。

このような内容でした~

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2009年7月 9日 (木)

苦しみによって練られる信仰~7/9 婦人会

豊田バプテスト教会(豊田市広美町上之切3-5 電話0565-21-1087)聖書学び会に出席しました。

メッセージは高野亜紀子伝道師。テーマは苦しみによって練られる信仰。聖句は申命記2章26~37節

あなたがたは立ちあがり、進んでアルノン川を渡りなさい。わたしはヘシボンの王アモリびとシホンとその国とを、おまえの手に渡した。それを征服し始めよ。彼と争って戦え。(申命記2:24)

占領し始めよ。戦え」これが神さまの命令でした。しかし、モーセは「和平を申し込んだ」(26節)のです。

しかし、ヘシュボンの王の心を主は頑なにさせました(30節)

聖書に、主が相手の心を頑なにされることはしばしばでてきます。エジプトのパロやサウル王などがそうです。しかし、神さまの方法をとらせるためわたしたちにとって非常に重要な過程であることを忘れてはなりません。

わたしたちは結果よければ・・・と思ってしまいます。ヘシュボンと戦って占領しなさいとの命令に、なるべく戦いをさけ自分の身を守り戦うことを躊躇していることはないでしょうか。

イスラエル人がカナン(約束の地)に入るとは、今のわたしたちに当てはめれば天国に入ることに例えられています。エジプト脱出から40年間の荒野をさまよったイスラエル人。そしてもう少しでカナンの地を目前としている。このことから救いに預かった時から、天国に入るまでわたしたちはさまざまな訓練が必要なのです。

なぜか?自分たちが自分の救いだけで自己満足をしないため、自分本位の信仰に陥らないため、高ぶらないため、人に慰めを与えられるように・・・イエスさまの似姿へと変えられるために必要な過程なのです。

あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。(申命記8:17)

これは人間が祝福にあずかったときに陥りやすい状態です。伝道をしている。私は主に従っている。しかし形を重要視して自己満足に陥っていないだろうか。わたしたちのほうから神さまに捧げるのが信仰ではありません。いつも神さまから与えられているものであることに感謝することです。

アブラハムはロトよりも苦しみました。ダビデ王はサウル王より苦しみました。どちらが神様の祝福に預かったでしょうか?わたしたちは生活の中で「なぜこのようなことが起こるのだろうか?」と思うことに遭遇します。ヘシュボンの王の心を頑なにされたこともそうです。自分の方法で計算し、自分の方法もとりながら主に信頼してしまいがちなわたしたちです。

しかし、神様はわたしたちが人間的な可能性に絶望して、神様の方法に完全に寄り頼むように導くのです。苦難や訓練はわたしたちにとってよい状況を与えられるのです。それは肉体的なトゲかもしれません。外からの攻撃かもしれません。時には同じ兄弟姉妹からの攻撃かもしれません。とくに内側からの攻撃は失望、落胆も大きいものです。

しかし、どんな状況に陥ってもわたしたちには主がついておられる。主がその状況を与え、わたしたちがより主にすがるように変えられるのです。主はあなたの信仰の過程を見ておられます。どんな時にも失望せずに証ししていくことがわたしたちの使命であり、伝道なのです。

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。(詩篇119:71)

このような内容でした~

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2009年7月 5日 (日)

みことばを聞く心~7/5日曜礼拝

今日は日曜礼拝幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)にて礼拝を守りました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマはみことばを聞く心。聖句はルカ8章から。

イエス様はたとえ話を用いて人々を教えることがよくありました。主は当時の農民の種まきの様子から、みことばを聞く心の大切さを教えられたのです。今日は3つの点からお話しします。

1つめ。みことぱを聞く心によって結果が変わるということです。

この譬はこういう意味である。種は神の言である。(ルカ8:11)

種まきのたとえとは土地のたとえといえるのかもしれません。種は神のみことばを表し同じ種、同じ品質の種です。

違っていたのは、その土地です。その土地の状態によって数ヶ月後に大きな違いが現れたのです。神の言葉を聞いても聞く人の心によって違う結果になるのです。

2つめ。みことぱを聞く心が良くないと、多くのものに妨げられるということです。

道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。(ルカ8:12)

ブライドや恐れなどのためにみことばを受け入れない固い心は、みことばを悪魔に奪われてしまいます。みことばの命が心に残りません。

また、都合の良い話だけに興味を示す表面的な心は、都合の悪い試練に耐えることができません。さらに、世のものに執着する欲深い心は、世のものに支配されてしまいます。世の富や楽しみに心が奪われて、みことばが忘れ去られてしまうのです。

このように、みことばが健全に心に留まることを妨げる要因は様々です。けれども、共通している原因は、聞く人の心が良くないことなのです。

3つめ。みことぱを聞く心が良いと、豊かな実を結ぶということも教えられています。

良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。(ルカ8:15)

みことばを聞く時には、素直な柔らかい心、信じて受け入れようとする態度が大切なのです。1つの種が良い地にまかれると、何十、何百もの実を結ぶように、1つのみことばが良い態度の心に届いて留まると、人生の多くの面で役立ちます。

みことばは試練の中で励ましを与えたり、クリスチャンの品性を整えたりするのです。

神様のみことばは生きています。みことばを聞く心が整っていれば、わたしたちの心の内に力強く働きかけて豊かな実を結ぶのです。

このような内容でした~

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2009年6月30日 (火)

救いの確信~6/30祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)祈祷会に参加しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは救いの確信。聖句はロマ8章から。

ロマ書は3つに分かれます。1~8章、9~11章、12~16章。1つめは救いの教理について、2つめはイスラエルについて、3つめは実践的な事柄です。

今日読んだ8章の終わりは、聖化、栄化のまとめであると同時に、8章までの総まとめの箇所でもあります。

ロマにいるクリスチャンに対して救いを是非確信して欲しいと熱心さが伝わってきます。

今日は何故クリスチャンは救いを確信できるのかについて、3つに分けてお話しします。

1つめ。神さまがわたしたちの味方だからです。

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(ロマ8:31)

ここでつかわれている「もし」は、仮定法でなく、「神がわたしたちの味方なのだから」という意味です。ここは直訳すると「神がわたしたちのために(おられる)」となります。

今この世は確かに悪魔も悪霊も働いています。しかしそれらは最終的にわたしたちには勝利できません。なぜなら神さまがわたしたちの味方だからです。それは迫害や災いが起こらないという意味ではありません。永遠の命へ間違いなく導いてくださるということです。そのことについては、悪魔は介入できないということです。

ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(ロマ8:32)

わたしたちは生まれながらにして神さまから背を向けて歩んでいた者でした。そのわたしたちに一方的な恵みによって御子イエスを与えてくださいました。それは単にこの世に来ていただいたというだけでなく、十字架上でご自分の命を犠牲にされたのです。

それはわたしたちの聖化のため栄化のため必要なもの全てを備えてくださったのです。

2つめ。キリストがわたしたちのために執り成しをしてくださるからです。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(ロマ8:33~34)

悪魔は神さまの前に人を告発し訴える者です。罪に定めようと常に機会を狙っています。これに対して、キリストはご自分の義の衣を信徒に着せることによって悪魔からの訴えに対してわたしたちを弁護してくださいます。

わたしたちは救われてなお罪に対する弱さを持っています。ひとりで悪魔に立ち向かうならば太刀打ちはできません。イエスさまはわたしたちの過去の罪、現在の罪、そして未来の罪に対して、すべての時に対して貴い血を流してくださいました。

わたしたちはその十字架の血によって悪魔から無罪判決を与えられるのです。

3つめ。神さまの愛からわたしたちを引き離すものは何もないからです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。(ロマ8:35)

世の宗教は信じるならば何らかのご利益があるといいます。クリスチャンは天国への道は保証されていますが、苦しみがあり、試練があることが予告されています。

信仰生活を続けていると、祈っても祈っても願い通りにならない、災いがひどくなったりすることがあります。廻りの兄弟姉妹が喜んで礼拝に出席しているのを見ると辛いものです。自分だけ神様に愛されていないのではないだろうかと疑問がわいてきます。

それは、自分の体験、感覚、感情によって主を知ろうとするからです。しかしわたしたちはそうあってはいけません。

「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。(ロマ8:36)

「ほふられる羊のように」とは日本語で「まな板の鯉」という慣用句がありますが、それに相当すると思います。それは非常な苦難の様子です。使徒たちの状況を表したものでしょう。

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(ロマ8:37)

このような中にあってもパウロは「クリスチャンは圧倒的な勝利者だ」と宣言することができました。それは状況によってぶれない信仰です。たとえ状況が悪くなっても変わらないのです。

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ロマ8:38~39)

わたしたちはひとりひとり大変な経験をされています。兄弟姉妹の話を聞くとびっくりするほどのご苦労をされています。しかしわたしたちの回りにある荒波をどのように感じようが、回りで何が起きようがひとつだけ変わらないことがあります。

それは神がわたしたちを愛しておられるということです。そこに救いの確信があるのです。その真理を知ったとき、初めて大丈夫だといえるのです。

わたしは子どもの頃救われました。そして永遠の命を手にしました。しかしその後、道を外れて、神さまを悲しませたこともあります。それによって祝福は奪われました。しかし永遠の命だけは守ってくださいました。

神さまはそれぞれの兄弟姉妹に救いのご計画を持っておられます。一人ひとりに実現させてくださることを知り、ただひれ伏すのみです。この罪深い者までも愛してくださった主に一生喜んで仕えて歩む者とされたいです。

このような内容でした~

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2009年6月28日 (日)

主に不可能なことがあろうか~6/28日曜礼拝

今日は日曜礼拝。幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)にて礼拝を守りました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは主に不可能なことがあろうか。聖句は創世記18章から。

アブラハムは75歳の時に「あなたを大いなる国民にする」との約束をいただいていました。しかし、それから1年が過ぎ、2年が過ぎ、20年が過ぎ、24年が過ぎました。何も状況は変わっていない。変わったのは彼らが年老いただけでした。

主の使いがアブラハムとサラのところに訪れ、ふたりの間に子ができると伝えたとき、サラは思わず笑った。「わたしにはできない。あり得ない」と。しかし主にはできないことはひとつもないのです。

今日は3つの点から主がどんなお方であるか学びましょう。

1つめ。主は必ず約束を守られるお方です。

主にとって不可能なことがありましょうか。・・そのときサラには男の子が生れているでしょう」。(創18:14)

神さまはサラを通して約束を実現させるとおっしゃっていました。にもかかわらずアブラハムたちは自分で何とかしなければいけないと考えました。そのため、女奴隷であるハガルを通してイシマエルを得ました。

しかし神さまは不可能に見えるサラを通して実現させることを望まれたのです。天地を創造され、ノアの時に洪水を来たらせ、人類の言語を混乱させた主。主は死んだ胎を通して、人間の眼にはできないことを約束されたのです。

過越の時を思い出してください。小羊の血を門柱と鴨居に塗れと命じられたとき、エジプト人は笑ったことでしょう。

マリアの受胎についても同じことです。多くの人は主のなされる御業を笑います。

しかしわたしたちは信仰を持って不可能なことでも可能になると信じるのです。

2つめ。主は時を支配なさるお方です。

来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。(創18:14)

来年の今頃、男の子が生まれるとおっしゃいました。その通りに実現しました。ユダ王国がバビロン捕囚になったとき、エレミヤを通して70年の時が定められました。そしてそのタイミングでユダは再び戻ってきました。

また定めの時が来て御子イエスは生まれられました。

そして主が再び来られるときも、父なる神のみが知っておられますが、時を定めておられます。

勘違いをしてはいけないのは、わたしたちが望むタイミングと神さまのタイミングとは異なるということです。主は最もよいときにその実現をしてくださるお方です。

ただし聖書の歴史を日本の歴史に適用したり、自分の未来予測にしたりするのは危険です。戦後70年経ったら、日本にリバイバルが起こるとか、ここに書いてあるように1年後にわたしたち夫婦にも子供が生まれるとか、それらは聖書の誤った適用といえるでしょう。

わたしたちは主の訪れを無理矢理予想するのではなく、いつ神さまが御業を行われてもいいように準備しておくことが大事なのです。

約束がいつ成就しても恥じない信仰生活を歩みたいものです。

3つめ。主は人の心を見られるお方です。

サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。(創18:15)

神さまはサラのことをよくご存じでした。サラは笑ったが主に指摘されて悔い改めたことでしょう。神さまは心の中もすべてご存じなのです。

イエスの母マリアはこれに対して「主のお言葉がなりますように」と応えました。

サラも最初は主の言葉を信じてウルの地を出たことでしょう。しかし時間が経つにつれて神さまの約束を笑うようになってしまったのです。

神さまは時を支配し、わたしたちの心をご覧になっておられます。神さまはすばらしい約束を与えてくださいます。イサクとは日本に訳せば「笑い」です。本当の喜びを与えてくださる主に感謝しましょう。

このような内容でした~

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2009年6月21日 (日)

父親のあり方~6/21日曜礼拝

20090621w 今日は日曜礼拝。蒲郡バプテスト教会(蒲郡市清田町小栗見1-99 電話0533-68-6259)にて礼拝を守りました。

メッセージは浅田朗主任牧師が取り次がれました。テーマは父親のあり方について。聖句は歴代志上3章から。

イスラエルで最も偉大な王としてあまりにも有名なダビデ王。今日は父の日でありますので、父親としてのダビデから3つのことを学びましょう。

1つめ。彼は神が与えた結婚の原則から離れた。

聖書で書かれていることは神さまがすべて良しとされていることではありません。ダビデが多くの妻を娶ったことも聖書の原則からすると好ましいことではありませんでした。

妻を多く持って心を、迷わしてはならない。(申17:17)

当時の結婚の多くは政略結婚でした。自国の領土を拡大するための結婚です。ダビデは多重結婚をすることを自国の安全保障の策のひとつとしたのです。

主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。(創2:22)

しかし神さまのもともとの計画はひとりの夫に対してひとりの妻です。

また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙21:2)

そしてそれは花婿と花嫁、夫と妻であるキリストと教会の関係に結実されていくのです。そこに、夫は妻を愛し、妻は夫に従うという模範を見ることができるのです。

2つめ。彼は父親としての愛情は強かった。

ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。(2サム12:17)

ダビデはバテシバとの姦淫によって生まれた子に対して熱心に祈った。

しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。(2サム13:37)

ダビデはその息子アブサロムが異母兄であるアムノンを殺害した後、エルサレムを出奔したことを痛く悲しみました。

王はひじょうに悲しみ、門の上のへやに上って泣いた。彼は行きながらこのように言った、「わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム、わが子よ、わが子よ」。(2サム18:33)

ダビデはその子アブサロムが自分を亡き者としようとして戦争を仕掛けるものの、遂には制圧されて殺害されるに至ったとき、「自分が逆に死ねばよかった」と嘆きました。

以上から伺えるのは、彼は非常に父としての愛情は深かったと言うことです。

3つめ。彼は父親としての自覚が足りなかった。

ダビデは使者に言った、「あなたはヨアブにこう言いなさい、『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」。(2サム11:25)

ダビデはこのようにして人妻との不倫を精算させるために、人妻の夫を殺害するという奇策を実行します。

その後、彼の人生の歯車は大きく狂ってきます。娘のタマルは義母兄であるアムノンに犯され、アムノンは異母弟であるアブサロムに殺害され、アブサロムは武力を持って父親ダビデを殺害し、国を自分のものにしようと企てます。

彼は子どもに対して甘い処罰しかできませんでした。彼は親として罪に対して厳しく接することがありませんでした。親は子を愛しているが故に懲らしめるべきです。それは子を成長させるためです。涙をもって戒めるのです。

さてダビデの欠点ばかりをあげつらいましたが、彼は人間的に見れば悪逆非道な者でしたが、神さまからは「主の心にかなう者」と深く信頼され、愛されています。

何故でしょうか。

それは、罪を指摘されたときに悔い改めたことです。彼は父親としてよき模範は示せませんでしたが悔い改めたのです。それを神は良しとされたのです。

もちろんそれでも罪の刈り取りはしました。

わたしたちも過ちの多い者ですが、罪を悔い改めて共に成長していきましょう。

このような内容でした~

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2009年6月16日 (火)

神さまによる予定~6/16祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは神さまによる予定。聖句はロマ8章から。

ロマ書8章では、信仰による義、将来の栄化の希望、御霊のとりなし等について、学んできました。

今日は神さまによる予定について、3つの点からお話しをしたいと思います。

1つめ。神さまは予知に基づいて予定された。

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。(ロマ8:29前)

神さまは予め天国へ行く者と地獄へ行く者を知っておられるとか、何をやっても救われる、救われないは定まっていると言われているのではありません。

そうではなく、神さまはわたしたちに与えられた選ぶ能力を予めご存じである、自由意思をどのようにつかうのかをご存じであるという意味です。

人間には自由意思があります。人は神のせいで滅びるのではなく、福音を拒むから滅びるのです。伝えられた者に伝えるべき責任があるのです。

2つめ。御子の栄光の御姿になると予定されています。

御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。(ロマ8:29後)

わたしたちはこの御子の御姿に変えられていきます。それは人間に新生が加わってくるということではなく、永遠の御国を引き継ぐものとしてそれに相応しいものとしていただくことです。

3つめ。救いの計画全体が予定されました。

そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。(ロマ8:30)

召し、義認、栄化、それら全体の計画を予め定められたということです。その計画は途中で挫折することはありません。主がすべてを計画され、そこに導かれるからです。

「栄光を与えて下さった」という言葉に注目しましょう。過去形になっています。それは将来に関することだけれども、栄化が既に定まっており、そこに必ず導かれるという神さまの決意として、完了形で示されているのです。

天国の栄化を目指して、清く正しい歩み続けていきたいものです。

このような内容でした~

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2009年6月14日 (日)

滅びからの救い~6/14聖日礼拝

今日は聖日礼拝の日。安城恵みキリスト教会(安城市横山町石ナ曽根171-2 電話0566-72-4885)にて礼拝を守りました。

メッセージは臨時の鈴木先生。テーマは滅びからの救い。聖句はヨハネ3章から。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハ3:16)

これは聖書の中でも最も重要な聖句のひとつです。神とは、人が造った神ではありません。人を造られた神です。

わたしたちは偶然で出来上がったのではありません。時計に必ず設計者がいるように、ましてそれよりも複雑な人に設計者がおられないことの方が不自然といえます。

義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。(ロマ3:10~11)

わたしたちはすべて無益なもの、神さまから見て罪あるものとされています。

一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている・・(ヘブ9:27)

わたしたちへの裁きは必ず行われます。それは天国か地獄へ振り分けられるものです。

このような内容でした~

礼拝後で、鈴木先生とお話しする機会が与えられましたが、意見は平行線に。

教義はかなり狭く、ファンダメンタリズム(キリスト教原理主義)の影響を色濃く感じました。とにかく地獄をテーマに話をするのが大好きな教会です。

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2009年6月 9日 (火)

神はすべてのことを働かせて益とする~6/9祈祷会

夕食後、幸田バプテスト教会(幸田町菱池錦田73-1 電話0564-62-3403)の祈祷会に出席しました。

メッセージは今井勝利牧師が取り次がれました。テーマは神はすべてのことを働かせて益とする。聖句はロマ8章28節から。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ロマ8:28)

わたしたちはこの御言葉に直面したとき、確かに勇気づけられますが、同時に本当だろうかと疑念を持ちます。

4歳の子どもを白血病で失うこともあります。父親が3人の幼い子どもを残して交通事故で亡くなることもあります。未開の奥地で宣教に出かけた宣教師がひとりにも伝道せずに川で溺れて亡くなることもあります。

病、犯罪、事故、そのようなものにわたしたちはいつ遭遇するかわかりません。そのときに果たしてこの御言葉が本当だと言い得るでしょうか。

わたしたちは今日、この確信を持つ者でありたいと思います。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ(ヘブル11:37)

信仰の人の多くは悲惨な人生で終えました。それを「益」と言えるのでしょうか。わたしは「そうだ」と言い得る者になりたいと思います。

今日は3つのことをお話しします。

1つめ。神さまはわたしたちのために計画をお持ちだということです。

主はわたしたちひとりひとりに計画をお持ちです。それは義と認められ、聖とされ、栄光を受けさせられるという計画全体です。

わたしたちに起こるすべてのことは、神をより深く愛する者に成長させてくださるということです。神を永遠に愛する者へと成長させてくださいます。

神さまの計画は、愛する者を霊的に成長させてくださることです。内なる品性を清めてくださるのです。

主がわたしたちに計画しておられるのは、呪いの計画ではありません。祝福の計画なのです。

2つめ。主はすべてのことを支配しておられることです。

人生には実にさまざまなことがあります。順調なとき、逆境の時、期待通りに進むとき、期待はずれの時、心浮かれたとき、不幸のどん底の時。

主はそのように起こるすべてのことに働いておられるのです。主は実にすべてのことの主権者です。主の前には突発的なこと、偶然なことは何一つありません。

神さまが許可する範囲の中ですべてのことは起こっているのです。

誤解をしていけないのは、主は清く正しいお方ですから、罪を認めたり、悪を肯定されることはありません。

しかし悪や罪を用いることはされます。その最たるものが十字架なのです。

わたしたちは、自分たちの意思に反して事故、犯罪、病気に巻き込まれます。それらを歴史を支配しておられる主がすべてを許しておられると信じるならば、すべてのことを信仰によって受け取っていくことができるようになります。

3つめ。神さまはわたしたちの本当の益を知っておられます。

益とは自分の希望がすべて叶うことではありません。また不幸を経験しても最後はハッピーエンドの最期ということでもありません。信仰の先輩には神さまに従って苦しみの中に地上の生活を終えた人が大勢います。

益とはわたしたちの内にキリストのかたちが造られることです。キリストの品性、御霊の実が結ばれることです。

神さまはわたしたちがこの地上にいて天国というゴールに向かわせておられるのです。神さまにはひとつの無駄もありません。

動物園の虎が病気になったときにそれを治すにはどうしたらよいか。まずすべきことは虎が抵抗できないように麻酔銃で撃つことです。虎にとっては恐怖体験でしょうが、彼にとってそれが最も最善の道なのです。

わたしたちも不幸な出来事には会いたくありません。しかしそれがわたしたちにとって最善の道であるならば、御霊の実を結ばせるのであれば、どうでしょうか。

神さまはわたしたちが思う以上にわたしたちの益が何であるかをご存じなのです。今の不幸、災難を諦めるのでなく、自分にとって最善のものだとして受け取っていく。そのような信仰を持とうではありませんか。

このような内容でした~

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